メソポタミア文明とインダス文明の狭間に位置するイラン高原に存在したとされる未詳の文明(トランス・エラム文明)が、メソポタミア文明に匹敵するものだったとする説が発表されました。それは2001年、イラン南東部の都市ジロフト近郊で、紀元前2000年代のものとみられる精巧な遺物が多量に確認されたことによります。
ジロフトでみつかった遺物のほとんどは、クロライト(緑泥石)とよばれる暗緑色の石でつくられたものです。クロライトはイラン東南部などでとれる非常に加工しやすい石です。紀元3000〜2500年ころ、一般に青銅器時代とよばれる時期に、イランにはクロライト製品や木材・金属・宝石といった、農産物以外のさまざまな物資を、当時すでに農耕文明が花開いていたメソポタミアに輸出して潤っていた非農耕文明のトランス・エラム文明があったと考えられています。トランス・エラム文明とのかかわりで「ラピスラズリの道」という交易ネットワークがあります。それは「アフガニスタン北東部で産するラピスラズリなどの宝石や、金・銀といった貴金属が、トランス・エラム文明の交易ネットワークを経て西方のメソポタミアに運ばれた」交易の道のことです。
これまで、メソポタミアの叙事詩に残るトランス・エラム文明の首都アラッタは、ジロフトの北東100kmほどの場所にある都市遺跡シャハダードに存在したとする説が有力で、その衛星都市の一つ、ジロフト南西のテペ・ヤヒヤがクロライト製品の工房と考えられてきました。
ジロフトでの遺物の発見の状況から、そのトランス・エラム文明の中心地がジロフトにあり、ジロフトを中心とするトランス・エラム文明がメソポタミア文明に匹敵するほどの存在だったと考える説が発表されました。その理由を「メソポタミア文明は農産物こそ豊かでしたが、それ以外の必要物資は域外の交易文明によって供給されており、そこではじめて文明たりえました。逆にトランス・エラムは、メソポタミアから農産物を輸入していたとされており、その意味ではギブ・アンド・テイクの対等な関係にありました」とあげます。
これらの論議はこれからの科学的な調査にかかっています。一刻も早く科学的な調査がおこなわれ、人類史におけるジロフトの位置づけが解明されることが望まれます。
(この歴史地図は、『世界史地図・図解集』にも収録されています)