小説の部屋
桜花散るころ
(https://net-hub.jp/~hnakayam/kuka_04.html)
上舘 かなる
桜花の散る季節になると、早和子には決まって思い出される光景がある。
それはその後の早和子の運命を大きく変えることになった場面であるのにもかかわらず、いつも不思議な懐かしさと、夢の続きを求めるような慕わしさとを伴って蘇ってくるのだった。
妹の和嬉子はそこにはいなかった。
なのに、和嬉子は桜花の舞う季節になると、それでなくても暗鬱な表情を一層翳りのあるものにして、むっと押し黙るように家と職場を往復するようになるのだった。
7歳の晩春である。早和子は小学校へ上がったばかり。和嬉子は5歳。早和子は身体は小さいけれど風邪一つひいたことのない丈夫な子どもだったが、和嬉子は何かというと熱を出す、癇性で虚弱な子どもだった。
その日、早和子は二人の伯母の間に立って、遠ざかっていく母の後姿を見送っていた。
立っていたのは、母の生家である弥倉家の玄関先だった。母の歩いていく杉の大木の植わる緑門までの長い小道には、両側から覆いかぶさるようにして桜の枝が伸びていた。
桜は花の盛りを過ぎて、かすかな風にも花びらを散らしていた。木漏れ日が無数の花びらをきらめかせる。
小道は折り重なる花びらで、濃い桜色の絨毯のようだった。その上を静かに母の薄紅の草履が行く。桜花の化身とさえ見まがう美しい着物姿の母の向かう先には、見たこともないすらりと背の高い青年が立ち尽くしているはずだった。
先へ行くほどあたりは舞い散る花びらでぼうっと霞み、綺羅をまとった母の姿が滲んで遠のいていく。
これがこの季節になると早和子がきまって思い出すひとつの映像なのだった。
果たして母の向こうに背の高い青年などいたのかどうか。はっきりとした貌を持たない青年の像は幾度となく繰り返される伯母たちのたわいのない噂話によって作り上げられたものかもしれず、その噂話にしたところで母のこととは言えぬのではあったが。
母は四人姉妹の一番下である。姉妹は町の妖婦四姉妹と陰口を叩かれるほど艶聞がたえないのだった。
母は一度だけそっと振り向いて早和子に微笑みを向けた。
早和子は泣かなかった。後を追うこともしなかった。幼心にも追ってはいけないのだという気がした。
早和子は握られている伯母のぼってりと厚い掌から自分の小さな手を抜き取ると、伯母の後ろに回り、白い割烹着の裾を握って目を凝らした。
「八重は何て美しいのでしょう。あの男にはもったいないもの、これでいいのだわ」
一番年上の伯母が笑いを含んだ声でささやいた。「しっ!」ともう一人の伯母が人差し指を立てる。「子どもに聞かせることじゃないわよ」
早和子は、桜花の化身となった母を、しっかりと目に焼き付けるようにして見つめ続けていた。母はあの花霞の中に連れていかれるのだろう、と思った。
夜ごと母の語る「かぐや姫」の物語を早和子は思い出していた。月の光そのもののような羽衣をまとって、月に導かれていくかぐや姫を、とどめおこうとしていた地上の者たちはみな、体の力も思いの力も抜き取られ、ただぼうっと見送るばかり。
このくだりに来ると、母は決まって肩の力を抜き、くたりと仰のいた。
早和子もまた夢幻の最中に脱力するようにしてたちすくんでいた。
ちょうど一月ほど前、早和子は和服姿の母に手を引かれてこの道を歩いた。1キロほど先にある小学校の入学式だった。入学準備のため3日前から早和子と和嬉子は母に連れられて弥倉家に泊まっていた。和嬉子は前日に熱を出し、伯母たちの看病を受けていた。そうでなければ早和子が母に手をつないでもらうはずがない。
その日、木立に囲まれた屋敷周りにはまだ雪がうずたかく残っていて、門に続く道は雪溶け水で所々ぬかるんでいた。
防寒草履の母はぬかるみを避け、一足一足、ゆっくりと進んでいた。早和子はランドセル姿に長靴で、白いズックの上靴と外靴の赤い革靴を袋に入れて手に提げていた。赤い革靴は帰りに遠藤写真館で記念写真を撮ってもらうときのために持っていくのだ。
そこへ役所のジープに乗った父が猛スピードでやってきて、門を出た先にある広い通りに急停車した。後から付いてきた祖母が後部座席のドアを開け、先に長靴の早和子が乗り込むと、次いで母が裾を汚さないよう膝まで着物をまくり上げて、ようやく硬いシートに腰を下ろした。
早和子は、その煙草の脂臭いシートに納まってほっと息をついた。
「来てくださったのね」と母はバックミラーに向けて笑顔を見せた。汚れを避けるため折り返された着物の上に紫の風呂敷をかけた。
風呂敷は会場でコートや履物をくるんでおくためにあらかじめ用意してきたものだった。
父は、ああ、といったきりで、そのまま乱暴にジープを発進させた。
小学校の正門前で二人を下ろすと、父はまたあわただしく役所に戻って行った。仕事中に抜け出して二人を入学式に送り届けにきてくれたのだ。無口で不愛想な父は、めったなことでは笑い顔を見せなかった。
その日の母は薄紫の色無地の着物に紋の付いた黒い羽織を着ていた。会場で会う人々は、
「とてもこんな大きなお子さんがいるようには見えないわね」「『スタイル』のモデルさんが目の前にいるみたい」と判で押したように盛装した母の美しさを褒め、それから思い出したように早和子に声をかけた。
「早いねえ、もう小学生になるの。この間までこんなに小さかったのに。早和ちゃんは足も速いし頭もいいから、お父さんもお母さんも楽しみだね」
早和子は会う人ごとに褒められる母をもって誇らしい気持ちだったけれど、それが自分のことになると消えてしまいたいほど恥ずかしくなるのだった。
なぜなら「こんなに小さい」のは相変わらずで、今だって赤いランドセルが大きすぎて引きずるようなのを必死に背負っているのだったから。
遠藤写真館での記念撮影は、何度言われても顔がこわばって泣き出しそうな顔になり、一人だけの写真は撮れなかった。母に寄り添われ手を握られてようやく笑みが浮かび、二人並んだ写真を撮ってもらった。
写真の母はやはり美しかった。
母の生家、弥倉家は代々、多くの田畑や山林、いくつもの家作を所有し、町の主要な産業の担い手でもあったが、曽祖父が五十代目前で雷に打たれて亡くなってからは、なぜか男たちが病を得、或いは事故で次々と早死にするようになった。
早和子の祖母も兄や弟に先立たれ、家付き娘として17歳で婿を取らされた。祖母の下にはまだ妹が5人いた。
ところが、19歳で長女を産んで間もなく、7歳年上の夫は曽祖父同様、農作業中に雷に打たれて早逝してしまう。
それから2年後、無事三回忌を済ましてまだ幾日も経たぬある日、親族会議の席で10歳も年上の男との再婚が決められた。二度目の夫との間には一男二女をなした。
しかし、その二度目の夫も病を得て四十半ばで亡くなり、しかもその翌年には跡取り息子として大切に育ててきたはずの長男も亡くしてしまう。
まだようやく三十代半ばだった祖母は、知人の勧めで、秋田から出稼ぎに来ていた果樹農家の三男坊と三度目の再婚に踏み切ることになる。その再再婚で生まれたのが早和子の母、八重である。
三度目の夫は丈夫で働き者だったが、八重が5歳になった年、新しい事業を始めるといって上京したまま帰らなくなった。それから7年ほど経って、なぜか工事現場で足場から落ちて死んだと連絡が来た。
「もう諦めろ。このうちじゃあ、男は居つかないんだよ」
祖母の2つ下の妹は、今度こそ跡継ぎを産まなくてはならないとまたしても再婚を考える祖母に、吐き捨てるように言ったという。
5人いる妹たちは他家に嫁ぎ、子をなして平穏な暮らしをしていた。ならば男の子の一人を養子にくれと祖母がいっても、誰一人首を縦に振らなかった。
「ここにいたら、おれは食い殺される」
失踪する前、八重の父親は、親しくしていた床屋の夫婦にそんなことを言っていたのだという。
町の誰彼から、男が早世するという弥倉家の怪異を聞かされたからだろう、と床屋夫婦は語ったが、祖母は、そんなロクでもないことを吹き込んだのはあの夫婦に決まっている、と腹を立てた。
大人になってから、八重は姉たちと自分の父親が違うということを知ったが、その姉たちだってすべて同じ父親の子ではないと聞かされて驚いた。
口さがない町の人たちがひそかに言い交わしていた、弥倉の家は「一家の柱が立たない家」だという陰口は、いつのまにか八重の耳にも届いていた。
そしてそのセリフはいつの間にか「あそこの女は男を食い殺してしまう」という蔭口に変わっていた。
田畑や山林の大半は切り売りされ、或いは他家に嫁した妹たちのものになり、本家の祖母の元には家屋敷のある土地の他、自家栽培用の畑といくつかの家作以外に財産は残っていなかった。
婿を取って継がせるほどのものでもないと祖母は考えるようになっていた。気丈な祖母ではあったが、悪意のある陰口が、まんざら根拠のないことではないかもしれないと恐れる思いもあったらしいのだ。
八重の三人の姉たちはそれぞれ他家へ嫁いだ。そして、なぜか一様に結婚生活を破綻させた。それぞれほどなく再婚となったがそれもうまくいかず、子どもを相手の家にとられた長女と、一人娘を連れた三女が実家に戻ってきた。
二女だけはそのまま都会で美容師として自立しながら一人で、一男一女を育てていた。
八重は姉たちの結婚生活を見て、自分だけは簡単に破綻しない堅実な家庭を作ろうと決意した。姉たちが結婚相手に選んだのは見てくれと家柄のいい男たちばかりだったから、自分は容姿などより真面目で家庭を大切にする人を選ぼうと思った。
そうして役所勤めの和治と結婚したのは八重が20歳のときだった。和治は25歳、隣町の農家の次男坊で、この町の助役を務める親戚の引きで役場の職員になっていた。黒い袖抜きをして算盤を弾いている目の細い男は、見合いの席でも笑顔ひとつ見せなかった。
後に八重の姉の一人が、その日の和治を「まるで出征兵士のようだったわ」と揶揄すると、和治は緊張で顔が強張っていたのだと弁解した後で、「着飾った女たちがずらりと並んで目がくらむようでした。思わず、これだけの衣装をこしらえるのにどれだけかかったか、算盤を弾いてしまいましたよ」と冗談とは言えぬ皮肉な口調で言い返した。
華美を嫌い、倹約を押し付ける、面白くもなんともない、堅実なだけの男だった。
八重はこの家の女に生まれたことを不吉な宿命のように感じていたから、実年齢よりも10歳も老けて見える和治を見て性格が合わなそうだと直感していても、これでいいのだと納得していた。
「八重も、自分がこんなふうに家庭を壊すなんて思ってもみなかったでしょうね」一番目の伯母が言った。
「あの子は、わたしは絶対姉さんたちのようにはならないって宣言したんだから。あの時の眼、忘れられないわ」三番目の伯母が含み笑いをして言った。「それでなくても大きな目から炎でも噴き出しているみたいだった」
「なのに、皮肉なものよね」と一番目の姉。
「なぜかそうなるようになっているのよ、あたしたち。仕方ないんだわ」と三番目の伯母が小さく嘆息する。
「私たちだって好きで家庭を壊したわけじゃないものね」
「そうよ、そうよ」二人は笑いながらうなずきあう。
「だけど、八重は本気だったわよ。それはもう見ていてかわいそうになるくらい旦那に気を使っていた。あんな偏屈、私なら三日でお払い箱よ。どこがよかったのかしら。何がおもしろくないんだか、始終センブリでも含んだみたいな顔して、ねえ」と一番目の伯母。
「あの男の名前に和の字が入っていたから結婚したのよ、あの子ったら」と三番目の伯母が薄く笑みをこぼす。
「ばかばかしい。わざわざ子どもたちに和の付く名前をつけたりもして」
一番目の伯母がが追い打ちをかけるようにいうと、ふたりは同時にぷっと噴き出した。
自分だけは結婚しても家庭を崩壊させまいと心に決め、そこで、生まれた子供には「家庭の平和」の願いを込めて、「和」の字を入れたのである。早和子に和嬉子。
「あんなに綺麗に生まれついて、引く手あまただったのに。好んで貧乏くじ引いて、挙句これだものね。これでまた世間様から何やかやと言われるのよ」一番目の伯母がそっと嘆息する。
「呪いの家? だから、倫子姉さんだって、この家に帰ってこないんだわ。呪いだなんていうのは世間様のやっかみなのに。あたしたち四人姉妹が美貌に生まれついたのは何も悪魔と契約したためではないもの。男は死んで、女はみんな家庭を壊す、そんなのたまたまよ」
三番目の伯母が語気を強める。その実、四人姉妹が例外なく結婚を破綻させてしまったことに、普段は誰よりも因縁じみたものを感じているのだったが。
倫子は早和子の二番目の伯母である。パートナーはいるが結婚は考えていないという。結婚しないのは子どもたちのためというより、再度の破綻を恐れているからだ。そして、実家には足を向けようとしない。
「でも、分かるわよ、倫子の気持ち」
一番目の伯母は膝に畳んで載せていた割烹着を身に付けて立ち上がる。
「さあ、夕飯の支度にかかりましょ」
切実な願いにもかかわらず、八重が姉たちの先例に倣うことになってしまったことに、姉妹はやはり落胆していた。
早和子の脳裏に鮮明に焼き付いている光景は、まさに母の八重が夫と子どもたちを捨て男と逐電していく場面だったのだ。
そのとき母の八重は29歳、相手の男は大学を出て就職したばかりの22歳だった。母は曲がりなりにも9年間、家庭を守ろうと懸命に努力したことは確かなのだろうと、早和子は思う。
伯母たちは家庭を壊し子を捨てていく母を少しもなじらぬばかりか、当然のことのように見送っていた。当時、まだ存命の祖母でさえそうだった。
祖母はその件に関しては一切関わろうとしなかった。諫めることもなかった。
母は官舎の狭い部屋の掃除を済ませると、荷物をまとめ、早和子と和嬉子の手を引いて実家に戻っていた。田舎の祖母の家は大きかったけれど、襖はどこも明け放してあったから、諍いがあれば筒抜けだった。しかも、早和子は大人の話が好きで、いつも大人たちのそばで一人遊びをしていたから、大概のことは耳に収めていた。
伯母たちは母の決断をもろ手を挙げて応援したのではないにしろ、仕方のないことと受け止めていた。弥倉家の宿命と苦い唾を飲み込んでいたのだったか。
母には、捨てていく娘たちへの未練はなかったのだろうか、と早和子は思う。それほどに若い男への執着が強かったというのか。
大人になってこの場面を思い出すたび、早和子は奇妙な違和感を感じずにはいられなかった。
違和感には、諫めることもなく平然と見送っていた伯母たちの姿ばかりでなく、あのとき自分はなぜ母を追って泣かなかったのだろうか、という疑いも含まれている。追うどころか、二人の伯母とともに、母の背をどこか陶然として見送っていたのだから。
あるいは伯母たちに、母はすぐ帰ってくるのだからとでも言い含められていたのだろうか。たぶんそんなところだったのだろうと思うが、そんな慰めは口実に過ぎず、母はもう帰ってこないのだということを、幼い早和子は何となく分かっていた。その時早和子の心の中には、幼いながらも諦めのようなものがしんと横たわっていた。
あまりにも度々、大人たちの内緒話を聴いて育ったからかもしれない。
どこかで、いずれ母は私を置いて行ってしまうと観念していたような気がするのだ。伯母たちの話の中に登場する運命や宿命という言葉が、諦観を伴って早和子の中に根付いていたためかもしれなかった。
あの日、和嬉子はどこにいたのだろう。早和子が母を見送ったのは母の実家だった。和嬉子も一緒に弥倉の家に連れてこられたのだが、和嬉子は祖母に連れられてどこかにでかけていたのだろうか。
和嬉子はその日のことを少しも覚えてはいないという。まだ5歳だったのだから当然だろう。
その後、父は自分の生家のある後志に移った。長兄が亡くなったので、役場をやめて農家を継ぐことにしたからだ。早和子と和嬉子は母が出奔してしばらくすると、父のもとに引き取られた。
折り合いの良くなかった兄嫁は一周忌が済むと一人息子を連れて都会へ移った。
継母が来たのは早和子が三年生の時だった。一家は山の中腹にある古い平屋の家で暮らし始めていた。継母は父と共に朝早くから家畜の世話をした。早和子は足の悪い父の妹と二人で、一人前に台所を任された。
和嬉子は小学校へ上がったばかりだった。相変わらず身体が弱かったせいか祖母や継母に大切にされ、半年もすると腰巾着のようにして継母のそばを離れなくなっていた。
初めから継母になじもうとしなかった早和子は、勢い継母の鬱憤晴らしの対象になった。
「なんで言われたことをすぐにしないんだ」
前に言いつけられていたことをやっている最中に次のことを指図する。すぐにやらなければそう言って怒声がとんだ。だからといって、前の仕事を放り出して次にかかれば、
「どうしてなんでも中途半端で放り出すんだ」と叱られる。
唇をかんでじっとうつむいていると、今度は、「強情っぱりは母親譲りか。その、人を小ばかにしたような口が憎い」といっては口をねじられ、平手で頬を叩かれた。いつも父親のいないところでばかり。それでも早和子は父親に言いつけようとは思わなかった。
朝の三時半に起きて、風呂の水くみ、薪割り、洗濯、風呂掃除、米とぎ、釜洗い。大きな鉄釜はびっくりするほど重い。かまどから上げ下ろしするのは子どもの手には余る。
家には住み込みの若い衆が二人いた。早和子が小さな体で大きな釜を下ろすのを気の毒がって必ず手伝ってくれるのだが、継母はそれを見てもその場では何も言わない。そばに誰もいなくなったところで、独り言のようにして言うのだ。
「いまから男に媚びるなんて末恐ろしいよ、この娘は。おまえの母さんは、評判の尻軽だったてね。男を次々食い散らすような真似をして。どうせおまえもそんな女になるんだろ」
美人は怖いと身に染みたのか、父が再婚したこの継母は、従順だけれど、美しさとは無縁の女だった。浅黒い骨太の体は牛馬のようで、女らしさを少しも感じさせなかった。
姿かたちばかりでなく、その言葉の荒さにも早和子は驚いた。たおやかな母の物言いを聞いて育った早和子には耳が穢れるような気がしてならなかったのだ。
早和子は子どものころは小さくて痩せていたが、大人並みに体を使う仕事をしてきたおかげで、小学校を終えるころには背も伸び、引き締まった敏捷な体つきになった。
とくに脚力には自信があった。毎日登校のため山道を2時間もかけて行き来してきたおかげである。
中学で陸上部に所属すると、めきめき頭角を現し始めた。国体にも出場し、将来を期待された。
高校受験のころになると、地元の高校から陸上部のエースとして迎え入れたいとの打診があった。学業には自信がなかったから、早和子には願ってもないことだった。
父に相談すると、思い通りにしたらいい、と言ってくれた。
ところが、継母が頑として許さないというのである。女に学問なんかいらない。この上、学校なんかに行かせたら、とんでもない高慢ちきになる、日ごろ、この娘の屁理屈にどんなに胆をひやされてきたことか、と言ってあることないこと父に告げ口するのだった。
継母が早和子につらく当たるのは、早和子が長ずるにつれて前妻の八重に似た面差しになってきたからでもある。しかも外で父は娘の美貌とその若鹿のような脚力を自慢する。
「早和子にはそろそろわたしの代わりになって家畜の世話もしてほしい。わたしは近頃、働きすぎで腰が痛くてたまらない。そうでなければもう、この家にはいられない」
継母の強硬な反対ぶりに、この女にまで出ていかれてはたまらないと思ったのか、父はあっさりと自説を曲げて、継母の言うなりになってしまった。
「母さんがだめだというのだから諦めろや。洋裁でも習って花嫁修業しろよ。脚ばかり速くたってどうにもなるわけではないべ。女は嫁に行って家庭を守るのが定めだ」
と、父は歯切れ悪く言った。
自分の娘すら守れないような男なら、母が見限ったとしても当然だったかもしれない。ふとした折に早和子はそんなことを考えている自分に驚いた。知らず美しい母の面影を追っていた。
目に浮かぶのは母の後姿ばかりである。
母に捨てられたのだと知ったときから、早和子は母を追うまいと密かに自分の心に言い聞かせてきた。それ以上に自分を憐れむのはよそうと心に誓ってきたのだ。
なのに、性懲りもなく思い描くのはあの日の母の姿である。
和嬉子が継母の腰巾着になるのも、一面では母への憧憬への裏返しかもしれない。継母に可愛がられることで母へ意趣返しをしているつもりなのだ。早和子は、そんな妹の傷つきやすい心を哀れに思う。
自分だけは未練たらしくするまいと思ってきた。だからこのときも、美しい人だったのだから、それにふさわしい良い男と逃げたとしても仕方がないのだと、子どもらしからぬ諦め方をして、自分の中に潜んでいる思慕を抑え込んだ。
長じてから伯母たちの話を聞くうちに分かったことがあった。
それは若いころの母の八重にとって夫は、愛の恋のというより、まず安定した仕事についていることが重要だった。さらに特別酒癖が悪いわけでもなく、素朴で実直な人柄に信頼感を抱いたのだ。寡黙で話題に乏しいことに物足りない気はしたが、一家の大黒柱としては却って好ましいと思っていた。
姉たちの相手が見てくれがよく人好きのする人たちばかりだったことも影響している。そんな男と結婚しては、安定した家庭が築かれるわけがない。軽佻浮薄な男より、重みのあるほうが家庭人としてはふさわしい、と若い八重は思ったのだ。
しかし、寡黙さが動じない印象を与えていただけで、その実、小心な男だった。酒が入ると幾分滑らかになった口で、力があるのに報われない恨みを訴え、普段は口にしない身内の自慢をするのが八重にはたまらなく不快だった。美貌揃いの八重の生家に対するコンプレックスが相当に強かったからだろう。自分の生家が八重の家より金持ちの家系であることを、誇大なほどに言い募った。
その上、釣った魚に餌をやるような男でもなかった。八重は子どものころからちやほやされて育ってきたので、最初はこのぶっきらぼうで武骨な男が物珍しくもあったが、そのうち物足りなくなっていった。
それどころか、人格を無視され、もののように扱われていることに我慢がならなくなったのだ。そんなとき、夫の部下だという美貌の青年が八重の前に現れた。
少しのことで朱を注ぐ白い肌や、八重を見る憧憬のまなざしにうっとりした。
そうしてあの日、手に手を取って駆け落ちと相成ったのである。
しかし、その男も八重の理想に合致する男とはならなかった模様である。
八重はそのあと、件の青年とも別れ、何度か相手を変えた。家庭の平和にも恵まれず、愛の満足も得られなかった。そして早和子と和嬉子以外、子宝にも恵まれなかった。
最期は、誰にも看取られぬまま、古い病院の一室で静かに果てていった。
母八重は歳を重ねてもその美貌は変わらず、病んで面痩せした姿はかえって品よく感じさせたという。可憐な少女のような愛くるしい笑顔とふるまいで周りの憐憫を集めていたのだと伯母たちは語った。
早和子は伯母たちから、母が病床にあることを聞かされてはいた。けれども、見舞うことはなかった。
急変が伝えられて伯母たちが病院へ到着したときには、すでに八重は目を落としていた。ほのかな笑みを浮かべた白い顔は山影にさく鈴蘭のように可憐で美しかったという。
それを哀れとは思わなかった。哀れなのはどのようにしても自分に見合うだけの相手を得られなかった母の生涯である。
早和子は病み衰えた母の姿を見たくなかった。自分の中にいる母は、桜花散り敷く中を静かに遠ざかっていくあの美しい着物姿の母だけである。
早和子は19歳で結婚し一女をなしたが、結婚して7年目に事故で夫を亡くした。
今は、生涯独身を貫くという和嬉子と二人、静かに暮している。