小説の部屋
薔薇の生垣
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上舘 かなる
あれは三度目の挑戦でようやく教員採用試験に合格し、定時制高校の教諭として赴任した年のことだった。バブル景気の崩壊をきっかけとして、後に「失われた三十年」といわれる低迷期に突入したあたりのことである。
始業式間近になって二年生の担任をするはずだった年配の教師が突然入院し、採用になったばかりの私が、急遽、担任を引き継ぐことになった。
「最低限の知識とモラル、それさえ身に着けさせればいい。あまり気負わない方がいいよ」
新任の指導に当たる先輩教師は、自嘲とも皮肉ともとれる薄い笑みを浮かべてそう言った。その疲れきった艶のない顔を見て、嫌悪感に身体が震えた。
「女の先生だと最初からなめてかかるかもしれないけれど、根はいい奴らなんだ。気長にやるしかないね」
他の教師からはそんなことも言われた。それは最初から覚悟していた。
いや、どこまで覚悟していたものか。それまで私立高校で産休講師などを経験していた私にはさほどの困難とは思われなかったのだ。年齢が近い分、互いに分かり合えるはずだと単純に考えていた。
給食があるから年老いた母に弁当作りや夕食の準備をしてもらわなくても済むというのも魅力だった。家事一般、特に料理の苦手な私にとって、給食付きというのはありがたかったのだ。宵っ張りの私には、夜遅くまでの勤務さえ困難には思われなかった。
しかし、何と浅はかだったのだろうと嘆息するのにさほど時間は掛からなかった。小さなことから言えば、ちょっとわくわくしていた給食が、あんなに味気ないものとは思いもしなかった。広い食堂で教師も生徒もトレーに載った同じメニューをいただくのだけれど、にこやかな挨拶も愉しい会話もなく、ただ機械的に咀嚼する時間のつまらなさ。
たくさんの人数が集まっているはずなのに食器の音の他は、小波のような人声がするばかりで、カウンターの内側にいる職員たちの声の方が大きく響く感じだった。
そのうち、冷たく硬い揚げ物を噛み切りながら、少しでもものを胃に入れておかなければ数時間を乗り切れないのだからと、悲壮な覚悟をしている自分に愕然とした。
孤独で味気ない食事の後に続くのは想像以上の修羅場だった。
担当クラスに初めて足を踏み入れた、そののっけから悪戦苦闘が待っていた。多少の気負いをもって教室に入った私を待ち受けていたのは、期待と好奇心に彩られたキラキラ輝く瞳なんかでは間違ってもなく、嘲笑と軽侮に満ちた冷酷な眼だった。脚を組む者、机に長い脚を乗せ、微妙なバランスで椅子をのけぞらせている者、くちゃくちゃと口を開けてガムを噛む者。冷たい透視するような眼で、上から下まで隈なく見る者。
名前を呼んでも誰一人返事をしない。
ところが、私が一言話し出すと、猛然とした私語が始まるのだ。第一日目がこうなのだから、後は推して知るべしである。
鏡で笑顔の練習をし気合を入れて教室に入っても、職員室に戻ってくるときは一気に十歳も老けたように消耗していた。
なにせ最初から彼らの瞳には理由のわからない敵意が宿っていたのである。日を追うごとにひどくなる冷笑と無視の異様な雰囲気に心臓が縮み上がる思いだった。それでも必死に平静を装っていた。黒板に向かって文字を書き始めると、その背中にあらゆるものが飛んできた。
さすがにわずかに刃を出したカッターナイフが飛んできたときは肝を冷やした。思わず教卓をバンと叩いて、これは誰、と声を張り上げたが、皆、顔を背けてにやにや笑っているばかり。身体が震える思いだったけれど、ぐっと拳を握りしめ、職員室まで取りに来なさい、といって教室を出てきた。職員用のトイレに駆け込み、思わず泣いた。
それからは、何をされても平然としていること、感情を露にしてはこちらの負けだ。教室に行く前、自分に言い聞かせるのはそのことだけだった。最低限の知識やモラルを教えるどころか、四十五分間、教室にいることさえ至難の業だったのだ。
そうしてとにもかくにも三か月余りが経ち、明日から夏休みという日のことである。
もちろん、十五人いる生徒とは一向に距離が縮まらず、クラスの雰囲気は良くなるどころか日に日に険悪になっていた。これでしばらくはこの子たちの顔を見なくて済む、不謹慎にもそんな思いが去来していた。
このところ極度のストレスからか酒量が増えていた。こんな状態が一日でも長引けば心より先に身体の方が参ってしまいそうな気がした。それでも負けて逃げ出すのはいやだった。ともかく一時休戦だ。その間に英気を養い、何か方策を考えるとしよう。休み明けには平然と教卓に立てるように自分を鍛えなおさなければならない。こうなったら神経戦だ。先に弱音を吐いた方が負けなのだ。いずれにせよ、彼等とはしばしお別れなのだから。そんな気楽さが少しばかり心に余裕を持たせていた。
クラスに一人、自分と同年齢の女生徒がいた。彼女、秦野理沙は寡黙だけれど、このクラスに絶大な影響力を持っていた。理沙と分かり合えればクラスの雰囲気が変わっていくのではないか。何とか二人きりで話す機会をつくりたいと思っていた。が、この三か月余りの間、そんな機会は一度もやってこなかった。理沙自身が固い岩盤のような壁を作って、一歩も踏み入る隙を見せなかったからである。
ほとんど諦めかけていた。このまま夏休みの間に気力を回復し、あと半年を走り抜ける以外に方法はない。早くこの脳裏から悪夢のような記憶を消し去ってしまいたい。誰かが事件でも起こして引き戻されることがなければいいと、手前勝手なことばかり考えていた。
ところが、機会は思いがけず向こうからやってきたのである。
生徒が帰った後の点検に教室へ行くと、秦野理沙が暗い窓辺に寄りかかっていた。
「まだ帰らないでいたの」
私は戸口で一瞬立ち止まり、驚きの声を上げた。
理沙はまっすぐこちらを見て嘲笑うように言った。
「あんたさ、ここまでされてもあたしたちの担任でいたいんだ。今日は覚悟を試そうと思って待ってたのよ」
「あなたにあんたなんて言われる筋合いはないわ。大した度胸だこと」と私は冷たく笑ってみせた。
「ふん。あんたという以外に何て呼びかけたらいいのさ。ここはね、あんたみたいなちゃらちゃらしたお嬢様が来るところじゃないんだ。汚れる覚悟がなくて担任なんか務まるもんか」理沙はふてぶてしく言い放った。
それから薄ら笑いを浮かべて私を見、
「今夜はとことん付き合ってもらうから。逃げないでね。ビビるようなやつなんかあたしたちには必要ないんだからね」と言い切った。片頬がぴくりとひきつった。
「見くびられたものね。校舎を一歩出たらもう担任でも生徒でもない」と私は即座に応えた。ここで怯んだりすれば、もっと侮られるに違いない。
その日は仕事帰りに付き合い始めたばかりの男性とのデートの約束があった。しかし、ここで彼女の誘いを断ったら二度とこの教室で教壇に立つことはできないだろうと、瞬時に腹をくくったのである。
「虚勢なんかすぐに崩れるさ。断るならいまのうちだからね」理沙は脅すような口調で言った。「こんなことが教育委員会にでもしれたらただではすまないんじゃないの」
理沙は私が少しでも怯む気配をみせないかと執拗に表情を探っている。獲物をいたぶる飽食した猫のような目をしているが、私には無理にやさぐれているようにも見えた。
「これがあなたたちのやり方なんでしょ。通過儀礼てわけね。担任を降りる気がないんだからしかたないじゃない」
私は冷笑を浮かべて理沙を見た。
理沙はにたりと笑うと、すたすたと先に立って教室を出て行った。
外で待っていたのはクラスの男子生徒の自家用車だった。さっきまで仲間と一緒になって私を挑発したり嘲笑ったりしていたのに、その時は珍しく無言だった。二人を繁華街にある店に送り届けると彼はそのままいなくなった。
「センコーなんか大嫌いだよ。特に女のセンコーはね」
間仕切りでいくつかの席に分けられた居酒屋風の店に入り、理沙は席に着くなり私に言った。
「だけど、あんたいい度胸している。みんなビビるんだよ、あたしに誘われるとさ」
「おあいにくさま。すれっからしで悪かったわね」と私は笑った。
「どいつもこいつも吐き気がするような笑顔を貼り付けてあたしたちの前に立つんだよね。あたしはあなたたちの味方よってさ。でも腹の底ではしっかり線を引いていることぐらい、お見通しさ。あたしなんか、きっとセンセの想像できないほどの底辺で生きてきたんだ。だけど、自分の中の最後の核だけは決して壊されまいと必死だった」
いつのまにか「あんた」が「センセ」に代わっていた。
「あなただって多少の虚勢は張るでしょう。教師だからって特別の人間なんかじゃないのよ。あそこに立つ以上、私はこの子たちの唯一の味方なんだと自分に言い聞かせなくてどうするの。少なくともそういう覚悟であそこに立つのよ。最初から線を引いているのはあなたたちのほうじゃないの」と私は冷たく聞こえるほどはっきりと言い切った。
三月余りの間の落胆や恐怖の日々が思い出された。冷たい汗をかかない日は一日としてなかったのだ。
「確かに。それはあるかもね」
理沙の語調はすっかり緩んでいた。過去の教師たちとの軋轢を語りながら、話はいつの間にか自分の生い立ちに及んだ。
理沙は父親を知らなかった。母親は何度も男の人を変えた。そのたびにお父さんと呼ばされることが苦痛だった。
母親は男の人と別れると、目が覚めたといって必死に働きだした。理沙は母親に代わって家事を引き受けた。母と子で作っていくつましい暮らしが幸せだった。母親は大きな焼酎瓶に一円、二円とお金を貯めた。理沙はわがままを言わなかった。靴底が剥がれてもボンドで張り付け、ジャージのズボンの破れに接ぎを当てた。買ってくれなどとは間違っても言わなかった。それが学校でからかいの種になると分かっていながら。
けれども、幸せは絶頂期でいつも崩れた。焼酎瓶の小銭はいつのまにかなくなっていた。母親の化粧が濃くなり、理沙の見たことのない高価な服や装飾品が部屋のあちこちに目につくようになる。
母親の頑張りが続くのはいいとこ半年だった。そしてまた同じことが繰り返されるのである。
「貧乏はいやね。学校では物がなくなると全部あたしのせいにされた。担任は、あなたを疑っているわけではないけど、と言いながら腹の底では疑っていた。どんなに貧しくたって心まで貧しくなんかない」
理沙は孤立していった。普通の子たちはもちろん、不良少女たちからも敵視されていた。集団リンチを受けることもあった。
理沙は平然と教師たちに歯向かうけれど、他の不良たちのように繁華街で遊び歩いたり、悪さをしたりはしなかった。どんなに誘われても一緒に行動しなかったのだ。危うい場面で助けてくれたのが俊という有職少年だった。
「いい奴だったけど、結局あたしを持て余していなくなった。あたしは時々、自分でもどうにもならない癇癪を起す。理由なんかなんでもいい」
私は返す言葉もなく聞いていた。
「その後は気づいたら自分が嫌いな母と同じような生き方をしていた。男には頼るまいと思っていたけど、一人では生きられなかった。俊の子どもを産んで、整備工場を作るという彼の夢を自分の夢として生きればよかった。いつも途中で投げやりになる。母と同じ。薬もやった。ウリだってしたさ」
理沙は少しずつ自嘲的になっていった。
居酒屋を皮切りに一体何軒梯子したのか。理沙は平凡な家庭で育った私などが想像もできぬほどの辛酸をなめ、人間不信の塊になっていた。それでも何とか生きなおすために夜学に通い始めていたのだった。
私は何を話したのだろう。変質的な男との別れの顛末を話したのだったか。「おまえのようなブスをもらってくれる男なんかいない」と言った父との確執を語ったのだったか。男なんかこりごりという経験をしながら、また新しい相手と交際を始めている。理沙やその母親をとやかくなんか言えない。
そして、翌朝、私は思いもかけない場所で目を覚ました。
ふいにおびただしい光を感じて薄目を開けたとたん、眼窩の奥から射抜かれるほどの鋭い痛みが走った。思わず、口から男のような太いうめき声が漏れた。
二日酔いのみじめな目覚めだ。目を開けるとアルコールでふやけきった脳に激痛が走った。頭蓋の中に割れ鐘が埋め込まれているようだ。喉がカラカラになっている。目を開けるのさえしんどい。
カーテンも閉めずに眠ってしまったのか。
せめてこの光でも遮断しようと掛けているものを目の上まで引き上げようとしたとき、ふと違和感を覚えた。細く目を開けてみる。
白い光の中に無数の塵埃が飛び交っていた。体を動かすとつんつんと小さく刺されるような皮膚の痛みを感じる。手のひらを這わせてみる。干し草のようだ。いや、ムシロみたいなものだろうか。
いったいここはどこなのだろう。
おおよそ自分が目を覚ますべき場所とは思えなかった。ささくれたような木の壁に立てかけてあるのはスキ、クワ、スコップ。隅に積まれているのはムシロらしい。農家の納屋みたいなところなのか。
まさか、私は誰かに突然ここに押し込められたのではないのだろうか。いや、しかし、よく見ると、体の上に赤い銘仙のようなものでできた薄い布団がかかっている。見たことのないものだ。北のこの町では夏でも夜半は冷える。
犯人は泥酔した私を好き放題にイタブッたあと、多少の憐れみを覚えて布団をかけていったのか、あらぬ可能性におびえる。
ただ、さらりと触ってみたところ衣服に乱れはないようだった。でも、しわくちゃ。このスーツ、ボーナスで奮発して買った、目の玉が飛び出るくらい高価な一点ものだというのに。今度は嘆きのため息が漏れる。
自分の置かれた状況が少しも飲み込めず、ムシロの寝床の上に半身を起し、拍動する脳の痛みに呻き声をあげていると、ギィーと不気味な音がして、静かに戸が開いた。
驚きの声より、ううっと呻き声が絞りだされたのは、やにわになだれ込んできたおびただしい光のせいだった。眩しくて痛くて瞼を開けてはいられない。そっと薄目を開けてみる。
目に飛び込んできたのは小さな人型だった。頭の部分がやけに大きい。宇宙人? しかし、その人型の発した声は映画か何かで聞いたようなビブラートのかかったへんてこな声ではなく、痰がらみのしわがれた声だった。
「ほほ、起きなさったか」
老婆である。ほほは、口をすぼませて発した笑い声のようである。いささか揶揄するニュアンスがこめられている。
老婆の顏は腰に直接つながれている。いや、いや、そんなことはない。曲がった腰をさらにこごめて私をのぞきこんでいるので、そう見えたのだ。横に長い頭部の大きさは髪の毛を包んでいる日本手ぬぐいのせいだ。
「ほれ、水が飲みたかろう」
老婆が突き出したのはビールジョッキのような分厚いコップである。
「すいません」
礼を言ってコップを受け取り、一息に飲み干してしまった。冷たくておいしい水である。
「うまいだろう。もう一杯飲みなさるか」
「はい」私は即座に返事をする。
老婆は少し足が悪いのだろう。ひょこひょこと揺らぐ感じで出ていき、またひょこひょこと戻ってきた。
「それを飲んだら母屋においで。腹も減ってるだろうが。ここは道具小屋だからな」
老婆は、投げ出されている赤いヒールを揃え、納屋の隅においてある古いサンダルを並べてくれた。足がむくんでとてもハイヒールなど履けたものではない。
ハンドバックとハイヒールを両手に提げ、老婆の後に従った。視線の先にあるのは、もんぺに包まれた老婆の尻である。着ぶくれている上に横にぶれるから、でんと大きく見える。歩きながら草をむしっているのだ。
「種がこぼれたんだね。紫蘇があちこちに飛び火しとる。せっかく生えたものを抜くのもかわいそうだからそのままにしてるよ」
そうか、草ではなく紫蘇だったのか。たぶんこれを入れて何かこしらえてくれるつもりなのだろう。
この二日酔いではとても食べ物など受け付けないだろうが、とりあえず老婆の親切はありがたく受けるべきだ、と思う。
老婆は一握りの紫蘇を握ったこぶしを腰に当て、よいしょと立ち上がった。尻の上に背中と頭が乗っかり、ようやく人の形になった。
思ったほど小さくはない。
「私はなぜここに寝ていたのでしょうか」
「なぜ、ほほほ」腰の上に両方の腕を載せ、つの字に戻った老婆は、声を潜めて笑った。
「そりゃ、ワチのほうが聞きたいわね」
老婆はよねさんといった。よねさんの語るところによると、夜中に突然、飼い犬が吠え出し、何事かと起き上がると外で何やら音がする。懐中電灯を手に外に出てみると、見知らぬ「若いおなご」が、庭先で盛大にゲーゲーやり、それから小屋の戸を押し開けてどたりと倒れこんだのだという。
そういえば理沙にタクシーで送られてきた記憶がある。その後、盛大にゲロを吐いたのか、ぞっとしてよねさんを見ると、彼女は半身を起して顔をこちらに向け「なに、汚したところはワチが片付けといたよ」とこともなげに言って笑う。
「肌掛けはおばあさんが?」
「まだまだ夜は冷えるからな」
よねさんの家は古い三角屋根だった。玄関を開けると、ぷんと動物臭がした。
奥から白い犬が飛び出してきて、わんわん吠えかかる。
「ロン、おまえの好きな若いおなごさんだ。老犬だから噛みはせんよ」とよねさんは笑う。
「どこでも好きなところに腰掛けて。ああ、窓の傍の椅子はロンの指定席だからな」
よねさんはそう言いおくと、すぐ横の台所に入った。
水の音と包丁を使う音がする。
ロンは寄ってきて、お座りをする。なでてやると気が済んだのか、窓際の椅子に飛び乗って、何やら砂をかくような動作をした後で、くるりと丸くなった。
「野っ原でいいだけ駆けまわったから眠くなったんだろ」
持ってきたお盆をテーブルの上に置くと、よねさんはまた、よいしょ、と背を伸ばした。
「冷や汁だ。二日酔いにはよく効くから、食ってみぃ。何なら飯もあるぞ。掛けて食うとうまいんだよ。遠慮しなくていい。ワチは一人暮らしだから。ほかには誰もおらん。それとも、迎え酒といくか」
「いえいえ、とんでもない。遠慮しときます」
私は、慌てて手を横に振る。
「ほほほほ、そこまで豪傑ではないか」
「じゃあ、お汁だけいただきます」
儀礼上断るわけにはいかないと箸をとる。
黒い塗りのお椀に氷が浮き、ねぎや茗荷、紫蘇などがいっぱい入ったどろりとした汁だ。試みにそっとすすってみる。みそとすりおろした白ゴマの風味が案外食欲をそそる。
よねさんは角の安楽椅子に体を預け、時々湯気の立った茶をすする。
「ワチは夏でも熱いのじゃなくちゃダメなんだよ」という。「どうだ、うまいだろ」
「とってもおいしいです。もう一杯いただけますか」
「そうだろ。どれ、鉢ごと持ってこよう」
こうなると、途端に馴れ馴れしくなってしまう。すいと相手の懐に入っていけるのは特技と言っていい。なのに、担任になった二年生のクラスでは私の評判は最悪だ。昨夜はクラスで一番手ごわい女生徒の挑発に乗って前後不覚になるまで飲むはめになってしまった。学校に知れでもしたら校長の叱責どころではすまなくなるだろう。理沙はそれを承知で私を誘ったのだ。
年齢が年齢だけに理沙が飲酒をしようがすまいが行為をとがめられるいわれはない。
問題にされるとしたら教師の立場である私なのだ。それを承知で彼女が誘ったのである。
覚悟が問われたと私は思った。これから彼女と行動を共にするのは担任教師としての私ではない。同年齢の一人の女として、口幅ったいが友として行くのだと。
私として何かあったら無傷ではすまない。せっかく得た仕事をふいにしてしまう危険だってあるのだ。しかし、いつまでもこのままでは私と彼らとの距離は縮まらないまま、授業もできず、軋轢はさらに大きくなって担任交代にさえなりかねない。
何もかも承知でいくのだ。甘く見るんじゃないよ、そんなつもりでついていった。
それだけで彼女の気は済んだのだろうか。最初の挑戦的な態度はすぐ消え、学内で見る彼女とはまるで違う女性として私の前に座っていた。
しかし、おやっと思うほど親し気に話を交わして気を許していたら、彼女は私をこんな見知らぬ土地に置き去りにして帰って行ったのである。最初からそのつもりだったのかもしれない。今頃、私の醜態を嘲笑っているのだろう。何というざまだ。やはり一筋縄ではいかないらしい。私と同じ年で、人間の裏ばかりを見続けてきた理沙には、私など甘やかされたひ弱な子どもにしかみえないのだろう。理沙と対等に付き合えると思った私が甘かった。
老婆は椀を小丼に替えて、たっぷり冷や汁を盛ってくれた。
改めて家の様子を見回してしまう。窓の横手の机にワープロが置かれている。発売されて間もないものだ。仕事柄私も使い始めているけれど、老婆の手に負えるものとは思えない。もしそうだとしたら大したものだ。
「これ、まさかおばあさんのですか」
「そう。講座に通ってるの。さすがに八十に手の届く婆はワチだけだ。ハハハ」
「おばあさん、八十歳になるんですか」
「四捨五入で八十だ。御年七十七歳になる」
「それだってすごいですよ。お仕事何をしていらしたんですか」
「仕事かい、ずいぶんいろんなことをしてきたな。若いころは女中だの、女工だの。会社の経理だの。それから一念発起して洋裁を習った。隣の部屋は作業場だ。業務用ミシンを置いてある。亭主が卒中で早死にしたもんだから、息子二人育てるのに必死だった」
「ずいぶんご苦労なさったんですね」
「なんもなんも、これしきのこと苦労とも何とも思わない。あんたは何しとるの」
「定時制高校で国語の教師をしています」
私は少しばかり恥ずかし気に答えた。
「ほう、夜学校か。ワチはなあ、小学校もでておらんのよ。夜学校だけ。ワチの時代の夜学校というのは何年通っても卒業の資格が与えられないのよ」
「えっ、そうなんですか」
「親が大変な貧乏で子だくさんだものさ。しかも、ワチの後に生まれた弟には重い障害があってな。ワチは家事ともっぱらその弟の世話をさせられたの。兄たちだけは学校へやってもらったけど、女は皆奉公に出された。ワチは朝から晩まで弟の面倒を見て、弟が死ぬと、今度は口減らしのために奉公にやられた」
ワチが子守に出されたのは大正時代も終わりの頃、今の満年齢でいうと八歳の年だったな。親や弟妹と別れるのはつらかったけど、二人の姉も奉公に出されていたから諦めはついた。ただ、姉たちは十歳になってからだから、こんなに幼くして出されたのはワチだけだったよ。いつも口答えをして叩かれてばっかりだったので、両親はワチを憎かったのかと思った。
悔しくて悲しかったな。「今に見ていろ」と涙を押しぬぐって家を出てきたけど、だからといって親弟妹に仇をしようなどとは露ほども思わなかった。働いて働いて、親に「およねが一番役に立つ」と言わせたい、そんな思いで必死に働いたよ。
最初の家はひどい家だったなあ。子守をしながら学校に通わせてやるといっていたのに、ワチはこき使われるだけで、学校へなどやってもくれない。それどころか、ろくに食べさせてももらえない。風呂にも入れてもらえなかったんだよ。体中、おできのガンベだらけで、そこから悪い菌が入ったんじゃろなあ、重い腎臓病を患ってしまったの。病院に入院させられて奇跡的に命は助かったけど、親は帰ってこいとは言ってくれない。見かねた叔父さん夫婦が面倒を見てくれた。叔父さんは炭鉱に勤めてたの。当時の炭鉱は立派な街で食堂もあれば映画館もある。そこにいたときが一番幸せだったな。よくしてもらったからさ。
ようやく元気になって、幼い甥っ子や姪っ子の面倒見ながら家事を手伝った。昔は洗濯機も電気釜もなかったから家事だけでも大変な労働だったの。幸せだったけど、いつまでもこうしておれないことはよくわかってたよ。またどこかで働かなくてはならない。
字もろくに書けないでは、まともな勤めはできないからな。勉強がしたい、字が書けるようになりたいと思ったもんだよ。
平仮名は叔父さんに教えてもらったけど、叔母さんは本を開いているとあまりいい顔をしないの。「本なんか読むと女は怠け者になる。それよりは料理や裁縫を覚えろ」って、台所仕事や針仕事ばかりさせた。
ワチはこういっちゃなんだけど、子どものころから器用だったの。浴衣だとか丹前下なんか、どうかすると叔母さんより早く縫ったもんだよ。
だけど、叔父さんはワチに勉強させたかったの。叔父さんはよく「無学なものはだめだ」と嘆いていたもんだの。自分がほら、学校を出ていないばっかりにやりたいことができなかったのさ。結局、肉体を酷使して働くしかない。時々、笑い話みたいにして話してたけど、どんだけ悔しかったべな、と思うよ。
叔父さんて人は器用な人だったんだ。見よう見まねで蓄音機や幻灯機をつくってさ、あっちからもこっちからも見に来るの。鼻高々だつた。叔父さんじゃなくてワチがさ。
ワチは十二の年に叔父さんの家を出て、また奉公に行くことになったの。
次の奉公先は、手広く事業を営んでいるお家だった。旦那様に奥様、尋常小学校二年のお嬢様と生後半年ほどのお坊ちゃま。そして、書生っていうの、旦那様の遠縁に当たる若い兄さんが一人、それと、奥の座敷には寝たきりのおばあ様がいらした。旦那様のお母上。ワチは生まれたばかりの赤ん坊の子守が主な仕事だった。
お屋敷には外仕事をもっぱらにする老爺と、ワチのほかに女中が三人もいた。亡くなったおじい様という人は本府の偉い方だったとかで、洋間のある広い立派なお屋敷だったよ。奥様もよい家の出らしく、いつもきれいな絹物を身に着けていたけど、いま残ってる写真見たら、何だかだらしない着方だもな。昔の人はいまの人みたくきりりとは着付けないのよ。おはしょりもぼってりして。ワチは洗いざらしの木綿ばかり着ていたけど、自分ではシャキッと来てたつもりだったけど、今見たらだらしないべな。ハハハ。
お嬢様は奥様に似て色白で器量よしだったね。だけど、ちょっと意地悪な子だった。日当たりのいい南向きの座敷を勉強部屋にあてがってもらい、旦那様のお古だけど紫檀の立派な座り机で手習いなどしてた。お琴や日本舞踊の稽古もあって、お付きの女中に連れられて出かけることも多かったんだ。
そんなときは帰ってくるまでにお嬢様のお部屋を掃除しておくようにと言いつかることもあったから、ワチはこれ幸いと隠れてお嬢さまの手習い帳を開いては、「春」「夏」「秋」「冬」などと、机の上に指文字で何度も何度も練習したものだ。お嬢様は和歌なんか習いに行って、学校のみんながまだ習っていない漢字を教えてもらっていたんだよ。漢字にはフリガナが振ってあったりして、ワチには好都合だった。
だけども、そんな時に限って背におぶっているお坊ちゃまが泣くの。背をゆすってとんとんたたきながら、「坊やはいい子いい子」と、こっちも半泣きで空に文字を書く。泣かれてあたふたするから、すぐに忘れてしまう。
その上今度は廊下から勘の立った女中頭の声が追っかけてくる。
「およね、お坊ちゃまのおむつがぬれているんじゃないの。何をしているのよ」ってさ。
障子がいきなり開けられて、女中頭がきんきん怒鳴る。日本手ぬぐいを姉様被りにして、そこからかんざしがニョキとでてる。
縁側からの明るい光を後ろにしょっているから黒い鬼のような影になってな、ワチはもう生きた心地もしない。
「お嬢様の屑籠を片付けていたんです」ってな、ワチもワルだから嘘八百。
「いつまでぐずぐずやっているのよ。お坊ちゃまの面倒を見るのがおまえの第一の仕事でしょう。泣かせないで頂戴。この家には頭病みの年寄りがいるんですから」
と、たっぷりお小言を頂戴する。
そんでも、性懲りもなくお嬢様の部屋に入っては、そっと手習い長を盗み見てしまうんだ。ワチも懲りないって。
ある時、お嬢様がくしゃくしゃにして投げた半紙を何枚か、こっそり懐に入れて女中部屋に持ちだしたことがあったのよ。捨てたものなんだから構わないだろうと思ってな。夜になって女中部屋でそっとなぞってみようと思っていたのさ。
ところが、運の悪いことに、お嬢様が自分の世話をしているおふみという女中を探していきなり女中部屋に入ってきたの。
「おふみ、あたしの花簪どこにあるの」って。
ワチは慌てて、紙反故を胸元にねじ込んだ。
それを目ざとく見つけたお嬢様は、「いやだ、何でおまえがそれを持っているのよ。返して」って叫んでさ、ワチの胸元から紙むしり取って大騒ぎさ、バタバタと廊下を駆けだしていってしまったのよ。
「お母さま、およねったら」
そう叫び続けながら、大げさに泣くの。「あたしの手習いを泥棒したのよ」
「騒々しい。どうせあなたが捨てたものなんでしょう」
奥様は、ちょうどお出かけになるところだったので、大して真にも受けずそうたしなめられたけど、お嬢様がなおも泣いて言いつのるもんだから、「わかりました。今夜、お父様からきつく叱ってもらいます。それでいい?」となだめられて、出かけてしまった。
奥様はご実家で祝い事の相談があるとかで、急いでいらした。
「およね、もうあたしのお部屋に入らないで。今度入ったらこの家から叩き出してやるんだから」
お嬢様はワチに舌を出して「あかんべ」をして見せると、もうそんなことは忘れてしまったようにお友だちとのお人形ごっこに戻って行ってしまった。
「この家を叩き出してやる」というセリフは、なぜかワチのことを嫌っているおふみっていうお嬢様付きの女中の決まり文句だったの。叩き出されてもワチには帰る家はなかったから、胸がドキドキしだして。言い忘れたけど弟の後、父親も死んだの。で、母親はワチの下にいる三人の子を連れて再婚してたんだよ。姉たちは一人は嫁に行き、一人は奉公に出てた。
それに初めての奉公で家を出されるとき、母親からはっきりと言われたもの。おまえにはもう帰ってくる家なんかないんだからってさ。引導渡されてたのよ。
ワチはその日一日、憂鬱な気分だったな。お坊ちゃまのお世話をしていても心ここにあらずで、そのたびにお坊ちゃまに泣かれ、そうすると険しい顔をして飛んでくる年嵩の女中に手ひどく叱られる。
奥様が帰ってきてお坊ちゃまのお風呂を使うのを、いつものように手伝い、遅い夕食をとって女中部屋に引き上げても、旦那様に呼びつけられるときのことを考えると、いてもたってもいられなくなるの。
「さっきからそわそわして、少し落ち着いて座っていたらどうなの」
おとしさんという年嵩の女中に叱られて、ワチはしょんぼり肩を落として部屋の隅に座り込んだもんだ。まんだ子どもだものさ。
その時、「およね、ちょっとおいで」
と部屋の外から旦那様の声がした。
とうとう叱られるのだと思うと、案外意気地なしで、瞼に涙があふれてくるんだ。
廊下に出るなり、ワチは平伏して、
「申し訳ありません」と、謝ったよ。
「いいから、私の書斎においで」
旦那様は癇性に眉をひそめ、すたすた先に立って歩いていく。
旦那様という人は、いつもはとても気難しい人で、笑った顔など見たこともない。ワチはもうどんなに叱られ、たたき据えられるかとガタガタ震えていたよ。前の奉公先ではちょっとしたことで叱られ、たたき据えられて納屋に押し込められるようなことも度々だったからね。惨いもんだ。
入り口で躊躇っていると、
「早く入って閉めなさい」と旦那様の少し苛ついた低い声がする。
ワチは部屋に入って、襖を閉め、その傍にかしこまって座った。体の震えが止まらない。
「そんなに怖がらなくてもいい」と旦那様は小さく笑われたの。品のいい人だったよ。
ああ、そんなに怒っていらっしゃらないのかもしれないとほっとすると、ワチは肩の力が抜けた。
「坊やのお守は大変だろう。すまないね」
旦那様は思いがけなくワチわねぎらってくれた。それから、「おまえは字をしらないんだね」と静かな声で言われた。「尋常小学校は終えていると聞いていたんだが」
「申し訳ありません。親の都合でいろんな土地を転々とした上に、病弱な弟の世話でろくに学校へ通えませんでした」とワチは小さくなって答えた。顏はもちろん、体中が恥ずかしさでかっと熱くなってくる。
「おまえはいくつだね」と旦那様が聞く。
「もう少しで十三になります」
あの頃は数え年だったから、今流にいうと十二歳かな。
「そうか」と旦那様は和服の袖口に反対の腕を差し入れて腕組みをしながら、何か考え事をしているようだった。
それからおもむろに、
「学校へ行きたいかい」ときくのさ。
「はい」とワチは勢い込んで返事をしたよ。
旦那様は苦笑して、小さく吐息をついた。
「そうか。ただ、奥様がどういうかだな」と、思案顔になる。「今から尋常小学校へ上がりなおすというわけにはいかないし」って考え込んでいなさる。それからまたおもむろに「学校といったって、昼間の学校じゃないよ。まあ、あまり期待を持たせて、許してもらえなかったらかわいそうだからね。何とか努力してみよう。それまでしっかり仕事をしなさい。いいね。奥様に感心だと思われるようにするんだよ」って。
「はい、一生懸命勤めます」とワチは勢い込んで応えたもんだ。
「それと」ってね、旦那様は言いにくそうに付け加えた。「絢子の書き損じなんかには手をつけないようにね。あの子はどういうんだか神経質でね。乱雑にほっぽっておくくせに、他人に見られるのは嫌だなんて言うんだよ」ってな。そして、ここにある本はいつでも読んでいいとまで言ってくださった。
天にも昇る心地だった。
「分からない字は次郎に訊くと言い」とまで。
次郎というのは旦那様の遠縁の書生さん。そのころは家でぶらぶらして絵なんか描いたりしてた。病弱な人だったよ。ワチが辞めてから病院に入ったらしいの。
「それで学校へあげてもらったんですか」
「翌年な。遠友夜学校といって、新渡戸稲造先生の創設された夜学校。あんた知ってるしょ。新渡戸先生」
「ええ。でも、詳しくは知りません」
「新渡戸稲造先生といったら日本を代表する偉い人だったから、そんなすごい学校へ行けるというだけでワチは天にも昇る思いだったよ。しかも金は一文もかからない。どうも夜学校を勧めてくれたのは例の書生さんだったみたいだけどさ。ワチはちょっと苦手な人だったの。気難しそうで。病気のせいだったんだろうがね」
「その夜学校というのはどこにあったのですか。今でもあるのかしら」
「いまの豊平橋のふもとあたりだったよ。昭和十九年に廃校にさせられたの。そのころじゃ、ほら、みんな男は兵隊にとられるし、女は勤労動員で働かされたりして、入学者自体が激減していたからね。すばらしい学校だったよ。残念ながら、いまはない」
よねさんは少し寂しそうに答えた。
「実は私、定時制で悪戦苦闘してるんです」
「ほう、それはまた」
「若いから侮られているんです。黒板に何か書こうと生徒に背中を向けるでしょ。そのとたん、バンバン物が飛んでくるんです」
「あらま」とよねさんは口をポカンと開ける。
「消しゴムだとかシャープペンシルなんかならまだましですけど、カッターナイフが飛んでくることもあるんですから。さすがの私も体が震えました」
「あれ、おそろし。勉強が嫌いなのかね」
よねさんはそっと眉根を寄せた。
「一時間、教科書一ページ読むのがやっとということがしょっちゅうです」
「信じられんな。何しに夜学にきてるんだか」
よねさんは小刻みに首を左右に振っている。
「私が音を上げるのを待っているんですよ」
私はそう言いながら、涙が滲んでくるのを必死に堪えていた。
「ワチらの夜学校を見せてやりたいもんだな」
「おばあさんの時代の夜学校は、そんなに素晴らしかったんですか」
「ああ、素晴らしかったよ。先生は札幌農学校の学生さん。みんなボランティアだ。先生も真剣なら、ワチらも一字一句聞き漏らすまいと真剣さ」
よねさんは心持胸を張り、一段と響く声で言った。
ワチが夜学校に通いだしたのは昭和四年。旧校舎での最後の入学者だった。初等部四年に入れてもらった。その年の夏から大増築して新校舎になった。電燈が赤々とともって、図書室や作法室もできた。嬉しかったなあ。
同じ学年にはワチのようにろくに尋常小学校に通っていない者や、一応出たけど、学びなおしたいという者もいたし、親が貧乏で昼間は働かせて金のかからない夜学校に、という者もいた。貧乏だから仕方がない。
幼い子どもより年のいった人が多かった。三十代の人もいたよ。男が多くて、女は三分の一にも満たなかったな、確か。
その他に中等部があった。ワチもその後、中等部に通わせてもらったの。
授業は夕方六時半から九時十五分まで。ワチは週二回、その日は奥様がお坊ちゃまのお風呂を使ってくださった。
しかし、ある日、奥様が親戚に出かけ、年嵩の女中に代わりを務めるように言ってくださったのに、一向に代わってくれず、ワチはとうとう二時間近くも遅れて夜学校へ出かけたことがあった。
その日は夕方から雨で、しかも土砂降りだった。ワチはおトシさんから譲り受けた番傘を差して駆けだした。晩秋の雨だから冷たくて体が冷える。もうはやる心で着物の上に綿入れの袖なし一つで駆けたもんだ。今のように長靴でも履いていればどうということもないが、素足に下駄だもんな。赤ん坊の風呂を使ってすぐ出たもんだも。出た時は雨はそうでもなかつたの。しまつたと思ったけど若いから大したことないだろうと高をくくったんだ。
道は今のようにアスファルトじゃないから、雨が降ればすぐぬかるむの。学校の灯が見えてほっとしたとたん、ゆだんしてたんだべな。ずてっと転んだもんだも。番傘は破れるわ、体は泥だらけになるわ。ワヤだ。
泣きながら学校さ入った。教室開けたら、わあっとあったかくてな。そしたら涙止まるどころか鼻の奥がつーんとなって、オンオン声出して泣いちまったのさ。
したけど、「よね、よく来たな」ってな。先生は温かく抱きかかえるようにしてワチを迎い入れてくださった。
それからお湯で拭いてくれるわ。ストーブのそばさ来いって特等席作ってくれるわ、もうどんだけ迷惑かけたかしれないよ。
初等部が終わるころには奉公先を辞めて製糸工場に勤めを変えたんだ。夜学校の先輩たちが終業時間が六時だから走って行けば十分学校に間に合うと教えてくれたから。子守奉公に比べお給金がいいのも魅力的だったし。
夜学校では始業の前に、廊下に整列して有島武郎先生が作ってくださった校歌を合唱するんだ。有島武郎先生、知ってるべ。あんた国語の先生だもんな。ワチは今でも全部覚えとるよ。「正義と善とに身をささげ 欲をば捨てて一筋に」てな。
昭和六年、ワチが中等部一年の五月、新渡戸稲造先生が来札されたの。晴れがましくて、うれしくて、いまでも時々夢に見るんだよ。
すらりと高い背に黒い背広を着てな。白髪に丸い眼鏡をかけてるの。優しい目をしていらしたよ。先生が歩くとこはふわあと柔らかい光に包まれているようだった。忘れられない思い出なんだよ。
新渡戸先生は教室でワチらの様子をじっくり見てくれた後、講堂でお話をされた。先生は、教室でワチらの様子を見られていたとき、ワチらの手を一つ一つご覧になっていたんだな。皆綺麗な手をしてる。手を美しく保つことはいいことだとほめてくださった。
手を大切にするということは、働くことを大切にする、働くことに誇りを持つということだと、ワチは自分なりに考えたの。手に職をつけようと思ったのも、その時の先生の言葉があったからなんだよ。皆、感動で泣いた。
『学問より実行』先生が残してくださった扁額にそうあった。
学んだ知識は生きていく中で知恵として生かしていかねばならないんだと思ったよ。何より夜学校では人間の心を学んだの。どんな境遇にあっても、愚痴を言わず工夫をして、感謝して、生きていこうと心に誓った。
新渡戸先生の薫陶を受け、あるいはその伝統を受け継いできた農学校の先生たちも、本当に素晴らしい人たちばかりだったよ。
先生たちがよく言っていたもんだ。電車を降りて学校まで来るとき、充分時間が間に合うのに、電車を飛び降りたとたん、一目散に走るんだと。自分のありったけを教えたいという情熱。その思いがまっすぐワチらに伝わってきた。響きあう心と心。教えるものと教わるものは合わせ鏡だな。心に心が応える。
学校へ着くと先生が『おかえり』って迎えてくれるんだよ。どんなに職場で辛いこと悔しいことがあっても、あったかく迎えてくれる場所がある。幸せだった。
いま思えば粗末な建物だったけど、希望があったな。善意と思いやりが溢れていたの。夜道は危ないからってさ、帰りは先生たちが送ってくれたもんだよ。
その幸せはいまも続いてるんだ。心の中にほっこり灯がともっている。これがあれば、人生の辛酸などどれほどのことでもない。
苦しい時は苦しみをそのまま受け止めて、楽しい時は楽しい思いを他の人にも分けてあげて、そう思って生きてきたよ。
夜学校へ入学する前の年くらいに、デパートの丸井さんがようやく土足で入れるようになったの。そだよ、その前は下足番がいて履き替えたんだものさ。信じられないってかい。
それが、昭和十二年には七階建てになって、屋上に航空灯台ができたんだよ。明るかったなあ。遠くからでも赤々と見えるから、よい道標になった。あれとおんなじものがワチの心の中の夜学校なんだよ。
だから十九年に閉校が決まったとき、ワチは泣いたよ。故郷が消えていくみたいに悲しくてさ、さびしくてさ。
だけど、涙を拭って考えた。よし、夜学校はこのワチの心の中に生きているんだってね。
「しかし、あんた、そんな恰好で学校へ行っちゃいけないよ。かつてワチはよくそういうのを縫ったもんだ。一点ものだろう」
「はい」私は小さくなって答えた。
「それを見ただけで夜学の子らはあんたを拒むだろう」
「仕事の後でデートの約束をしていたので。いつもは着たきりのスーツなんですけど」
「まあな、若いおなごさんだから、気持ちはわかるけども。それはそれとして、デートしてそんなにぐでんぐでんに酔ってたら呆れられるわな。うまくいかなかったからやけ酒飲んだのか」よねさんは楽しそうに笑った。
私はいきさつを話すのは面倒なので、笑ってやり過ごした。
「着替える時間ぐらいあるだろうに。仕事に腰が据わってない証拠だ」
「はい」私は素直に頭を垂れた。
「どれ、送って行こうか」よねさんはそう言って自動車のキーを手にして外へ出た。
「運転されるんですか」そのお歳でという言葉を飲み込んでわたしは聞いた。
「何でも驚く人だね」とよねさんは笑う。
よねさんの後に続きながら、私は改めて敷地の様子を眺めて、はっとした。
見事な薔薇の生垣がある。右手には大きなぶどう棚。左手に木造の作業小屋。花壇の周辺には一面に野菜畑が広がっている。
いくぶんすっきりした頭脳に、小さな驚きが走った。
えっ? まさか。ここはいつも通りすがりに見ている家ではないのか。そうか、いつも見ているのは左手にぶどう棚、右手に作業小屋。視界をくるりと回せば、朝晩見慣れた光景になる。
私の住む町内で敷地の周りを薔薇の生垣で囲っているのは二軒しかない。一軒は私の家。そしてもう一軒はバス停に向かう道すがらにあるぶどう棚のある家である。
普段バスで通っている私はバス停に向かいながら、いつも親近感を抱いてもう一軒の薔薇の生垣を見ていた。春が訪れると真っ先に水仙とチュウリップが、家に続く石畳の両脇に咲き乱れる。よく手入れされた黒土の畑で草取りをする人の姿を何度か見かけてもいた。よねさんだったのかもしれない。
「おばあさん、私の家、すぐそばです」私は嬉しくなって大声で叫んだ。
「ありゃ、そうかい」振り返ってよねさんはしみじみとわたしの顔を見た。「そういえば、あんたさんの顏どこぞで見たことがあるような気がしていたよ。ほほほ、間違えて帰ってきたの」
「通り一本向こうの薔薇の生垣のある家、そこが私の家なんです」
理沙は見知らぬ場所に私を放り出していったのではなかったのだと思った。
空を仰いだ。真っ青で雲一つない。今日も暑くなりそうだった。