小説の部屋
金魚のふん
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上舘 かなる
「いいわよ、宗春の面倒はわたしが見る。それでいいのよね」
際限もなく不満を並べてたて、「もう、あたしは一人になりたいのよ」と駄々っ子のように叫ぶ千代美に、与利子はついそう言ってしまった。
ものの弾みとはいえ、この歳になって弟の面倒を見なければならなくなるなんて、与利子は考えもしなかった。
まずは25年前、宗春と千代美が結婚することになったことからして、与利子にとっては青天の霹靂だったのだが。
弟嫁の千代美は与利子の中学校時代からの親友である。
美貌の千代美はあの頃からたくさんの男の子たちを引き付けていたのだが、よりにもよって7歳も年下の与利子の弟、宗春と結婚することになろうとは、与利子はもちろん、千代美だって想像さえしなかったに違いない。
与利子と千代美が仲良くなった中学一年生のとき、宗春はまだ小学校にさえ上がっていなかったのだから。
与利子の両親は緞帳を製作する会社を立ち上げたばかりで、狭い平屋の借家はごついミシンや作業台、分厚い布や作りかけの緞帳に占拠されて、家族がご飯を食べて寝るスペースを作るのが日課になるほど窮屈なありさまだったから、与利子は居場所を求めてよく友だちの家を訪れたものだった。
千代美の生家はこの辺りの土地を広く所有する地主の一族で、父親は急成長する食品会社を経営していた。建て替えてまだ内装工事の完了していない家は驚くほど広く、与利子は誘われるまま、よく千代美の家を訪れたものだった。そんな時、腰巾着のようにして宗春が付いてきた。
おとなしくてひ弱な感じの宗春は同年代の男の子たちとボール遊びをしに公園へ行っても、いつのまにか公園の隅でぶつぶつ呟きながらひとり、石や木の葉で遊んでいるのが常だった。ボール遊びも石けりもうまくできず、友だちの中で浮いてしまう弟を放っておけず、与利子はつい、一緒に行く?、と声をかけてしまうのだった。
千代美の家の居間は暖炉のある広いフローリングだった。まだ家具はひとつもおかれておらず、小さな体育館ほどもあるそのピカピカのフローリングで、三人は駆けっこをしたり、滑って遊んだりしたものだ。磨き抜かれたフローリングを靴下をはいた足で滑るのは、とりわけ面白かった。
静かで優しい千代美の母親は、ベランダのある硝子戸の前の陽だまりで、赤い座布団に座って繕い物をしていた。
千代美の母親が座っているのは部屋の左の端で、その先にドアがあり、ダイニングルームと台所が続いていた。右の端には一段高くなって和室が二つ続き、壁に襖を収納して開放された広い和室に千代美の祖母がしんと座って墨をすっていた。
暖炉のある北側の壁にはとびとびに襖とドアがあり、襖を開けるとそこは仏間で、壁一面に据えられた黒檀の巨大な仏壇に圧倒されたものだ。長押の上には先祖と思しき人々の写真がずらりと並び、むせかえるような線香の匂いが充満していた。子ども部屋はその隣のドアをあけたところで、机が三つ並べておかれていた。広い居間に比べると狭くて窮屈そうだった。千代美と二人の兄がそこを使っていた。本当の子ども部屋はいま内装工事が進められている二階になるが、それまでの間、ここで勉強するのだという。
とにかく見たこともないような豪邸だった。部屋の端に立って反対側の端の方を見るとぼうっとかすんで見えるほどフローリングの部屋は大きいのだった。
「パパがここでダンスパーティを開けるようにって、こんなに広い部屋にしたのよ」と千代美は少しばかり自慢気に言った。
この家の後ろに寸前まで家族が暮していた古い家が、まだ壊されずに残っていた。新しい家の三分の一にも満たない三角屋根の古い家である。その家だって与利子の住む家の何倍もありそうだったが、この新しい家に比べるとずいぶん質素で、みすぼらしく見えた。
千代美の母親は、夫の好みで建てられた巨大な家に当惑しているように見えた。ひっそりとした印象の母親は、フローリングの床を滑ったり、走ったりする子どもたちに注意をすることもなく、静かに座って針を動かしているだけだった。
それから何度も千代美の家に行ったが、巨大なフローリングの部屋には外国製の家具が置かれ、与利子たちはもうこの部屋で遊ぶことはできなくなっていた。階段を上がるとそこも結構広いホールになっていて、与利子たちはもっぱらそこでお喋りをしたりトランプに興じたりしていた。遊びの合間に英字ビスケットやマコロンなどの駄菓子にココアをごちそうになることもあったけれど、いつも千代美が突然階下におりてお盆を抱えてくるので、千代美の母親の声をまともに聞いた覚えがなかったような気がする。
しばらくして取次ぎに出てくるようになったのは家政婦だったし、そのうち勝手口から出入りするようになったのに、そこに母親の姿を見ることはなく、ますます会う機会はなくなっていた。
母親は千代美と与利子が高校三年生になる年の春に心臓の病で亡くなった。そのころ千代美の兄たちは、どちらも首都で大学生活を送っていた。
千代美と与利子は共にこの地方の名門と言われる女子大に進み、寄宿舎生活を送った。
千代美の父親は、娘が寄宿舎に入るやすぐに若い女と再婚した。事業が拡大すると居を首都圏に移した。
千代美は長期の休みになると、孤独を紛らすように遊び歩いた。
寄宿舎の日常は門限に縛られて羽目を外すことは難しかった。
大学卒業後、与利子は教員になって市内の中学校に勤めたが、千代美はヨーロッパに旅立ち、その後フランス人と結婚した。
数年に一度、突然、帰国した千代美から連絡が来て会う以外は、ほとんど疎遠になった。昔のように頻繁に行き来するようになったのは、千代美が離婚して日本に戻ってきてからである。
かつての生家は二番目の兄がその家族と暮らし、千代美は新しいマンションで一人暮らしを始めていた。
両親の起こした会社を継いだ宗春は緞帳だけではこの先萎んでいくだけだと、カーテンやインテリア商品を扱うようになり、中心街のビルに店舗を開く段取りをしていた。千代美はヨーロッパでの人脈を利用し、市の中心部に輸入雑貨を扱う店を開いていた。
25年前のその日、与利子は同じ寄宿舎にいた友人に声をかけ千代美の帰国を祝う食事会を計画した。会場となった小さなホテルの一室になぜか宗春も同席したのである。
宗春はそれまで女性との付き合いがまるでなかったわけではないが、与利子は相手の女性に一度も紹介されたことがなかった。
宗春が幼い日からずっと千代美に憧れ、思いを寄せていたと知ったのは、この日のことだった。
「弟がどうしても千代美さんにお目にかかりたいというものだから」 女子会に弟を連れてきたことを与利子は他のメンバーや千代美に詫びた。
「あの頃も宗春さんは与利子の後を、それこそ金魚の糞みたいについて歩いていたわね」
千代美は宗春と握手したあと、昔のように宗春を茶化した。
「これでもいまは父の会社を引き継いで、なんとかやっているのよ」
与利子は子どもの頃のひ弱な弟ではないのだと、すこしばかり擁護するように言った。
「結婚は、してらっしゃるのでしょう」
千代美は宗春の左手に指輪のないことを知りながら言った。
「それが、なかなかご縁がなくて」と与利子が応える。
「おいくつだったかしら」
「七つ下だから」と与利子。
こんな歳になってまで、応えているのは相変わらず与利子なのだった。宗春は与利子の横ではにかむように俯いて、時折眩しそうに千代美を見ているばかりだった。
「そうだったわよね。いやだ、年齢の話は一番したくないのに」
と千代美は美しい眉をしかめて見せた。
「千代美はあたしたちと同じには見えないわよ、ねえ」
と寄宿舎で同室だった雲野さおりが、そういって仲間内に同意を求める。さおりも与利子同様、市内で教員をしている。与利子と同じ独身だが、妻子ある男性と10年に及ぶ付き合いをしているのだと、つい先日聞いたばかりだった。千代美が知ったら、かまととぶって、ちゃっかりそんなことしてたのね、と即座に毒舌が飛び出してくるだろう、と与利子は思う。
いまだに二十代に見えるのはさおりも同様だった。しかし、十分に女らしい姿かたちをしているのに、なぜか色気を感じさせない女だった。10年にも及ぶ不倫がどうしても信じられなかった。
「あなたたちはまだ独り身だから、若いわよ。子持ちのほっちゃれとは違うもの」
仲間内で一番最初に結婚した片野理恵が、筋張ってきた手をさすりながらそう言って、皆を見回す。
理恵にはすでに女の子が二人いるが、いま三人目を妊娠中なのだという。堅実でどっしりした生き様をしている。
最後に遅れて来たのが、長江美玖である。彼女は市内の大学で専任講師として勤めている。前年、幼馴染の夫との離婚を聞かされたばかりだったが、つい先ごろ市内で良く知られた病院の医師との再婚を告げられた。相手にも妻子があったけれど、離婚して彼女との結婚に踏み切ったという。
宗春が小一時間ほど同席して帰ると、美玖は独身者の与利子たち、特にさおりに向かって、嫣然と微笑みながら言ったものだ。
「奪わなきゃだめよ」
それで美玖が相手の妻から医師の夫を略奪したのだと、同席のメンバーは知ることになったのだった。
与利子は、美玖の美しくカールした長い髪から意志の強そうな骨ばった顎がほの見えているのに気が付いた。学生の頃から美玖は人一倍競争心が強かった。決してそんな素振りは見せないけれど、一番を逃すと一人でそっといなくなる。そしていつもの寡黙さがいっそう顕著になるのだった。
仲間内で一番勉強しているのはさおりだった。成績はもちろんいつもトップクラスだったが、一番を逃しても別に悔しがりもしなかった。さおりと与利子は同じ国文学科だが、さおりは古典文学、与利子は現代文学を専攻していた。さおりはとにかく古典文学が好きでたまらないのだった。
千代美と理恵と美玖は英文学科の学生だった。テストの話で盛り上がっているとき気が付けば美玖が知らぬ間に席を外している。
そんなとき、千代美はみんなにそっと耳打ちする。
「美玖、トイレで泣いていたわ」
美玖は特別美人というわけではないが、ほっそりと華奢な印象の上に、とにかく品の良い所作と言葉つきが、何とも優雅に見えた。着るものに派手さはないが常に上質なもので、しっくりと似合っていた。在学中に秘書検定の一級を取得し、専門学校の講師や大学病院で秘書をしたりしていた、この春から大学に引き抜かれたのだという。努力家の美玖なら十分あり得ることだった。
その美玖が、相手の女から夫を略奪しろとけしかけても、少しも下品には響かないのだった。
「結婚なんて、考えてもいないわ」とさおりがおっとりと応える。「男の人が二六時中そばにいる生活って、あたくしには似合わないもの。そうは思わない?」
「さおりは家庭になんて向かないわね、確かに。家事一般がまるでだめじゃあね」理恵がすかさずいう。「でも、あなたたちのそういう考え、家庭の主婦としては聞き捨てならないわね」
「あら、理恵ちゃんは別よ。愛されてるから心配ないわ」
美玖がやさしく言う。
「話が生臭くなってきたわ。ねえ、昔の思い出話でもしましょうよ。あたしの歓迎会なわけでしょう」
それまでじっとみんなの話に耳を傾けていた千代美が、ここでようやく口をはさんだ。
さおりが洗濯も掃除もできず、母親が洗濯物を取りに来て、洗った衣類を置いていかない限り、下着を裏返しにしてはいていたとか、千代美がデートで門限を過ぎ、与利子が部屋の窓からいれてやったとか、数々の失敗やら恥ずかしい思い出などを語り合って散会した。
ほろ酔い気分で家に戻ると、宗春が起きて待っていた。
「ねえちゃん、千代美さんの連絡先、おしえてくれよ」
「何、仕事の話」と聞き返すと、
「いや、いいじゃないか、なんだって」とごまかす。
「まさか、あんた」といったきり、与利子は次の言葉を続けることができなかった。「わたし、酔ってるのかな」
宗春が千代美と結婚したのは、千代美が37歳、宗春が30歳のときである。
「ねえちゃん、ボク、千代美さんと結婚することにした」
食事会を開いて一月も経たぬある日のこと、宗春にホテルのレストランに突然呼び出された与利子は、そう宣言されて口をあんぐりと開けるはめになった。何をたわけたことを、と与利子は思った。いくら幼い日からの憧れであったとしても、千代美は男女の道にかけては手練れといっていいくらいで、女性経験の少ない宗春が太刀打ちできる相手ではないのである。
少し遅れてやってきた千代美は、
「びっくりしたでしょ」と与利子を見てバツの悪そうな顔つきになったが、「なぜかこんなことになっちゃった」とおどけてみせた。
「だって、宗春は7つも」と与利子がいうと、宗春は、
「年は関係ないよ。ねえちゃんは余計なこというな」と、いつになく気色ばんで与利子にそれ以上言葉を継がせなかった。
「ボクはずっとこの日を待っていたんだ」
宗春は聴く側が赤面するような台詞を吐いた。
「あたしみたいなおばあちゃんでもいいというのよ」
千代美は押し切られてこんな結果になったのだと言いたい素振りだったが、与利子は、千代美の苦笑ぎみの表情の裏に自身、満更でもないと思っている内心を見て取った。
「千代美さんは子どものころから美しかったけど、いまのほうがずっと美しいです。おばあさんなんて卑下するのはやめてください」
宗春は、姉の与利子がそばにいることも忘れたのか、必死に言いつのった。
「あほらし」与利子は顔を背けて思わずつぶやいた。「わかった、わかった。おめでとう。とにかく、何か食べさせてよ」
与利子は十代の若者のような宗春の言葉に、却って聞いている自分のほうが恥ずかしくなるようで、ウエーターを目で探した。
「ねえちゃん、ボクはあの家を出るからね、父さん母さんのことはよろしく」と宗春は与利子の気分になど無頓着で、ずいぶんあっさりと宣言した。「料理は注文してある。すぐ運んでもらうからね」
与利子は一度も結婚したことがない。男性との付き合いだって、数えるほどだ。これから先、老いていく両親の面倒を見ながら自分も歳を重ねていくのだと思うと、正直、気が重くなった。
どうせ長続きなどするまいと思った与利子の予想を裏切って、とにもかくにも二人の結婚生活は25年間も続いた。宗春と千代美の間には不妊治療でようやく授かった一人娘、恵麻もいる。来春短大を卒業する恵麻は、すでに外資系企業に就職が決まっていて、首都圏で一人暮らしをすることになっている。恵麻は若いころの千代美と同じようにとにかく活動的な娘だった。
恵麻を出産すると同時に店を手放した千代美は、それからは家庭に入り、恵麻のために手作りの菓子や洋服を作ったり、趣味の料理教室やフラワーアレンジメントの講習会を開いたりして暮していた。こんなに甲斐甲斐しく尽くす女だったのかと与利子が驚くほど、千代美は日常の暮らしを大切にした。
家庭に入ったからといって所帯じみたりはせず、相変わらず社交的で付き合いも広く、そして何よりその美貌に落ち着きや深みを添えていた。それでも、与利子やかつての仲間たちは、千代美が仕事を捨てて家庭に入るなんて考えもしなかった、と驚いた。
与利子は結局、独身のまま定年を迎え、いまは再雇用で別の中学校に勤めている。
教員不足で、正規の国語の授業だけでなく、副免として取得した家庭科の授業を終えて準備室に戻ってきた与利子のもとに、宗春から電話が入ったのは、そんな早春の午後だった。
宗春は完全に度を失っていた。酩酊しているようにしどろもどろでいったい何が言いたいのかちっともわからなかった。
「昼間からお酒でも飲んでるの」と与利子が叱りつけると、宗春は
「千代美が、大変なんだ」と情けない声を出した。
「いい歳してしっかりしなさいよ」と与利子に怒鳴られ、ようやく千代美が突然倒れて病院へ運ばれたことを告げた。
「去年、母さんが倒れた時、あんた何て言った」と与利子はつい怒りがこみあげてきて、言わなくてもいいことを言いそうになったが、「分かった、すぐ行く」と乱暴に言って電話を切った。
まったくこの違いはどうだろう、と与利子は腹の虫が収まらなかった。80歳になる母が倒れた時、宗春は千代美と旅行中で、
「ばあさんのことだから、すぐ持ち直すよ。命根性が汚いから」
などと言って、動じる気配も見せなかったのである。
宗春は、千代美に叱られ旅行を切り上げて病院へ駆けつけてきたけれども、与利子は階下の待合室へ連れて行って文句を言わずにはいられなかった。
「これで駆けつけてこなかったら姉弟の縁を切ってやろうと思っていたわよ。親の最期より大切なことってあるの」
しんとした病院内に声が響くのを憚って、低く押さえた声で言ったけれども、宗春は自分より頭一つ分背の低い与利子の広い額に青筋が立っているのを茶化すふうに、猫背になって自分のこめかみのあたりを指でぐるぐる回して見せた。
「まあまあそういきり立たないで。美人が台無しだよ。とにかく来たんだから、もういいでしょ」
宗春はちっとも反省したふうもなく、へらへらした調子で病室へ上がっていった。
「何が美人よ、バカ」
いつもは出目金だの、キンキだのとバカにしている弟の減らず口に腹立たしくなって、待合室の黄色い椅子を蹴とばした。
「イテテテ」
病室では千代美が母の手をさすっていた。
宗春の予想通り母は持ち直し、元気になって家に戻ってきたのだった。いまはまだ台所仕事は自分の領域と決めて与利子の手を煩わせなかったが、母の洗った後の食器に食べ物の滓が残っていたり、洗剤が良く落ちていないこともあり、気付かれないように洗いなおすことが多くなっていた。そのうち与利子がすべてやらなければならなくなるに違いないと思っている。
あれで母が持ち直したから良かったものの、もしもの事態に陥っていたら、宗春や千代美との関係は最悪のものになったろうと思う。
時間年休を取って与利子が病院へ駆けつけたとき、千代美は静かに眠っており、そばで宗春が蒼白な顔をして千代美を見守っていた。
倒れたとき、幸いに家には友人たちがいててきぱきと動いてくれたから大事には至らなかったけれど、もう無理はさせられないわよ、と友人たちは口々に言って宗春を攻撃したという。
「オレ、千代美をこき使ってなんかいないけどな」
宗春は途方に暮れたように呟いた。
状況が思わぬ方向へ変化したのは、千代美が退院して家に戻り、10日も経たぬころである。家には恵麻もいて、宗春は安心して仕事にでかけていたらしいのだが。
その日、退勤時刻を見計らうようにして、与利子の携帯が鳴った。
「はい」
同僚の国語教師と、花の金曜日だし、これから久々にホルモンで一杯やろうという話になっていたところに、宗春からの突然の電話だったので、与利子は思い切り不機嫌な声を出した。
「ねえちゃん、来てくれない。仕事おわってるよね」
「ちょっと約束があるのよ。なんだってそんな新卒青二才みたいなおどおどした声出すのよ、バカ」
「そんなこといいからさあ、とにかくうちへ来てくれよ」
「何勝手なこと言ってるのよ。こっちにだって予定があるんだから。明日休みじゃないの、明日じゃいけないわけ」
与利子は連れない声で返す。学年末テストと成績評価を無事終え、せっかくの週末をパアッと飲んで愉しみたかった。
「オレ、崖っぷちにたたされてるんだよ」
「会社、ヤバいの?」
「そんなんじゃないよ。千代美から三行半つきつけられてるんだ」
「何よ、その情けない声。いい歳して夫婦喧嘩でいちいち姉を呼ぶ?年上女房なんか、こっちからおさらばしてやればいいのよ」
与利子は愚にもつかぬことを、と半ば冗談で応えていた。
「声がでかいよ。千代美に聞こえるじゃないか」
「何なのよ、情けない」
「ね、とにかくすぐ来て、電話切るよ」
「自分からかけてきて,切るよもないもんだ」
呆れて携帯をしまうと、気の毒そうな同僚の目がこっちを見ていた。「弟なの」と与利子は苦笑いする。
「お取込み中ね、次にしましょうか」
「うん。バカな弟が夫婦喧嘩の仲裁をしろって電話を駆けてきたのよ。いい歳してなんだろうね。ごめん」
結局、与利子はそのまま千代美と宗春のマンションに向かうことになってしまった。
「もう、我慢がならないの。縦のものを横にもしない、食器一つ洗ってくれないなんて」ときつい表情の千代美が、テーブルに拳をたたきつけるしぐさをして言いつのる。
「食洗器があるじゃないか」と立ったままの宗春がため息交じりに応える。
恵麻は三人に紅茶をいれると、そうっと自室に引き上げていった。
「カップ一つ、グラス一個、一々食洗器で洗う?」
「まとめて洗えばいいよ」
「それが嫌なの、あたしは」千代美はいらいらと叫ぶ。
「千代美さんはそんなに神経質だったかな」と宗春が首をかしげる。
「宗春さんが気付かないだけよ」
いくつになっても互いを「さん付け」で呼ぶ弟夫婦に、日ごろは好ましいとも、歳の差夫婦の努力の賜物とも感じていた与利子は、案外目に見えない軋轢があったのかもしれないと初めて気付く。
「ふうん。だったら、家政婦さんに来てもらえばいいじゃないか」
宗春が困り果てたように言う。
「他人が家に入るなんていや。それに、あなたの部屋、壁が煙草の脂で黄色くなってるじゃないの。壁紙張り替えたばかりなのに。煙草の匂いが染みついた部屋を掃除するのもいやなのよ」
千代美の言い分は駄々っ子のようだ。
「煙草をやめろと言われても、すぐにはねえ。でも、努力はする。約束するよ」
宗春はとんだ展開になったというようにどぎまぎしている。
「ああ、もう、いやだいやだ。何もかもがいやなのよ」
千代美は半ば叫ぶように言うと、ぷいと横を向いてしまった。
「じゃあ、ボクはどうしたらいいの」
宗春は途方に暮れたように与利子のほうを見る。黙っていないで何とか口添えしてくれよ、とその情けない顔が言っていた。
与利子は白雪に覆われた山を見ていた。三角の形のいい山が、この部屋から何の障害物もなくきれいに見えるのである。春休みに入ったらスキーをしに行ってこようかと思う。もちろん、この山で滑ることはできない。犬を連れて入ることも許されない山なのだ。
いい歳をした夫婦の口争いなど聞くに堪えない。
「何とか言ってよ、ねえちゃん」
宗春の情けない哀願口調に、与利子はようやく口を開いた。
「宗春、あなた、千代美に飽きられたのよ。そうでしょ、千代美。だったらもう、離婚するしかないでしょ」と与利子は平然と言う。
「いやだよ。ボクは」と宗春は即座に応える。
「とにかく、あたしはもうあなたのお世話はしたくないの。できないのよ」千代美はそっぽを向いたまま、疲れた口調で言う。「離婚までは考えてないわよ。恵麻が反対するし」
宗春はほっとしたように息を継ぐ。
「いいわ。だったら、宗春、しばらく実家に戻ってらっしゃい」
与利子はつい、そんなことを口にしていた。
「千代美は一人でいるつもりなの? 恵麻ちゃんだって、もうすぐ家を出るでしょう」
「しばらく一人でいたいのよ」と千代美は力なくいう。「与利子の考えてることは分かるわよ。助けてくれる人ならいっぱいいるわよ。掃除でも洗濯でも、買い物だって」
「他に好きな人でもできたの」宗春が千代美を盗み見るようにしてきく。
「バカ、そんなんじゃないわよ」千代美が横目で宗春をにらみつける。「そうだったらよかった?」挑戦的に訊き返す。
「まさか。千代美さんはまだボクの気持ちがわからないの」
「どうでもいいわよ、そんなこと」千代美はいらいらと声を上げる。
「宗春、いい加減にしなさいよ。千代美は疲れてるのよ。だから一人にしてほしいと言ってるじゃないの」与利子は宗春の言葉を封じるようにきつい声になる。「とにかく、最低限必要な身の回りのものをスーツケースにでも入れなさいよ。あんたの顔をもう見たくないって千代美が言ってるの、分からないの?」
「そんな」宗春は茫然として千代美を見る。
「イライラするのよ。さっさと出て行って」
千代美はぷいと横を向き、ため息交じりにつぶやく。
「早く」与利子は宗春の腕を押す。
宗春はしぶしぶ立ち上がり部屋を出て行った。
こうして宗春は与利子と両親のいる実家にもどってくることになったのだった。
「ちっともそんな歳には見えないとか、いつまでも綺麗だとか、もうそんな言葉を聞いているのがいやになったのよ。ね、分かる?」
千代美はすっぴんにラフなスウェットの上下でソファに横になりながら、気弱な声で言った。
「ふーん、そんなものかしら」皮肉に聞こえる声色で返しながら、ほんとうの与利子は心底驚いている。
自分にはない殊勝な女心が、自信家で年下の夫も友だちをも完全に牛耳っていたと思ってきた千代美の中に存在していたとは。
「皆、無責任に言ってくれるわよね。だけど、そんなことを言われるたびに、あたしは辛くなるのよ」
「なるほど、きれいな人にもそんな苦しみがあるんだ。わたしは美形とは無縁だからそんな心配したこともないけど、きれいであり続けるって、大変なんだね」
与利子は美しく生まれついた人は、ずっと美しくあり続けなければならないと強迫観念のように思い続けるのだろうと、ちょっとだけ分かった気になった。
与利子だって多少は白髪や皴が気になるけれど、そんなことに時間やお金をかける気がしない。それどころか、相変わらず自家用車通勤の車内で、信号待ちの合間に下地クリームを塗り、ファンデーションを伸ばし、お粉でどうかすると眼鏡にまで叩きつけてしまう「簡易塗装工事」を施しながら職場に行く日々を送っている。そんな毎日に痛痒さえ感じない。
皴皴になって背も丸くなる自分の老婆姿をちょっとばかり楽しみにさえしている。こんな自分は可笑しいのだろうか、と思いつつ、今日もあっけらかんと生きているのだ。
いや、同じことを何度も言うようになった母と、ちょっと嗜好にうるさい弟の世話が多少負担になってはいるけれど。
父はまだ頭もしゃっきりし、自分のことは自分でしようと健気な努力をしている。もしかしたら宗春が一番厄介かもしれない、と思う。ともかく千代美が心身ともに健やかになるまで、この金魚のふんのような自立心の欠如した弟を、教育しなおしてやらねば、と与利子は腹をくくるのだった。