小説の部屋
木暮医院の夏子さん
(https://net-hub.jp/~hnakayam/kuka_07.html)
上舘 かなる
今から30年ほど前まで、病院に付添婦がいたことをご存じでしょうか。平成6年の健康保険法改正で、保健医療を行う病院では付添婦を置くことが禁止され、それから2年後の平成8年3月末をもって、病院から付添婦が一人もいなくなってしまいました。この改正は療養者にとっては福音となったに違いなくとも、当時、全国で11万人もいたという付添婦にとっては、その足元を掬う大荒波となったのは確かでした。
もちろん、私も安穏な生活の基盤を一気に失うことになりました。それ以後は家政婦協会に所属して一般家庭の家事仕事を専属にしたり、住み込み家政婦をしたり、温泉旅館で仲居として働いたりと、とにかく働きづめの日々でした。
70歳を過ぎたいまは、とにもかくにも中古で買ったワンルームマンションで好きな手仕事をしながら、うつらうつら遠い日々を懐かしむ、気ままな一人暮らしを送っております。
振り向いて遠い過去を手繰り寄せるようになっては、そろそろ今世の幕を下ろす日が近づいているのかもしれません。
傍目からみれば苦労続きの不運な女の一生のように思われるかもしれませんが、当人にとっては自己憐憫の思いはこれっぽっちもなく、ときにふっと口元のほころぶ、面白い人生なのでした。
そして、そんな私が最近とみに思い出すのは、個人医院で付添婦として働いた日々のことなのです。
私が木暮医院にお世話になることになったのは、離婚したばかりの30歳の春でした。小学2年生の一人息子は夫に取られてしまい、この子を自分のもとに取り戻すためには何としてもお金をためなくてはならないと思い、実入りの良い付添婦の仕事を始めたのです。
私は中学校しか出ておりません。両親を早くに亡くし、親戚の家を転々として生きてきた私は、その中学校にすらろくに通ってはいなかったのですが。
元々は繁盛する呉服屋の一人娘として誕生しました。月足らずで生まれ、とりわけ物覚えの良くない子どもでしたが、賢い婿でもあてがってこの家で一生暮らせるよう、この子のために財を蓄えようという両親に守られて安穏な一生を送るはずでした。
ところが両親は昭和29年に起きた青函連絡船洞爺丸事故で、共に命を失ったのでした。当時4歳だった私は、母の姉の家を皮切りに母の妹、父の兄、弟、妹と数年ごとに居場所を変えることになりました。
物心ついて、父母が遺した財産はどうなったのか誰かに問いただしてみたいとは思ったものの、世話になっている負い目からあからさまに問うこともできませんでした。むしろ、私の内心を推し量るかのごとく、おじおばたちは集まっては飲み食いの雑談の合間に、問屋への支払いを済ませたら夏子を一年食べさせるほども残らなかったよ、ほんとに一人娘の将来くらい考えてくれていても罰はあたらなかったろうに、などと誰彼となく愚痴っては、憫笑ともつかぬ笑いを響かせるだけなのでした。こんなほのめかしの外、誰ひとりとして事実を私に話してくれるものはいませんでした。
身を挺して守ってくれる者もいない、無一物の私は、食べさせてもらい住まわせてもらうだけで感謝しなければならないのだと思って生きてきました。
とにかくひっそりと生きること、それだけを心がけて暮してきました。おじもおばも一人残された姪の将来など考えてくれることもなく、当然、学力など端から問題にもされず、机に向かうよりは身体を動かして働けと言われて育ちました。ですから、かろうじて文字の読み書きができてお金の計算くらいはできるという程度の学力しかありません。
私に、父母の結構な遺産が兄弟姉妹たちによってむしり取られてしまったことを教えてくれたのは、寝たきりになった母方の祖母と一族の厄介者と言われてきた一番年下の叔父、みんなからは「オンジ」と呼ばれていた乙司郎おじさんでした。
オンジは若いころは病気ばかりし、ようやく働きだしたと思ったらどの仕事も長続きせず、私同様、価値のない人間と嗤われ、寄ると触ると棚卸の標的となってきた人でした。
そのオンジが、死の床で私に、
「ほんとはね、なっちゃんの両親はずいぶんたくさん遺していってくれたんだよ。あれだけあれば一生困らなかったと思う。だけど、みんなで寄ってたかって使い果たしてしまったんだ。ボクの病院代も出してもらったかもしれない。ごめんね」
と、自らの懺悔のつもりか、そう教えてくれたものでした。
オンジは重い腎臓病で最後の入院生活に入ったとき、なぜか、付添婦の代わりに私を寄こしてくれと何度もいったらしいのです。けれども、親戚の人たちは、若い夏子に男の世話はさせられないと突っぱねたといいます。
若い娘に男の下の始末などさせられないというのは、確かに道理です。けれど、もしかしたら一番恐れていたのは私に真実を知られることだったのかもしれないといまは思います。
どちらにしても、もう後の祭り。オンジが「一郎兄さんが自分の会社にいくらいくら」と語り始めたのを、私は「身体に障ります。いいんです、もう」と私は制しました。
オンジは声を上げて泣いていましたが、私は、そんなことをいまさら知ってどうなるものでもないと、妙に冷めた思いで聞いたものでした。
事実がどうであれ、今更追及してどんな意味があるでしょう。彼らによって使い果たされてしまったものはもう返ってはきません。
ところで、一族の厄介者は私とオンジの他にもう一人いました。それは母方の、寝たきりになった祖母でした。
さて、私が中学校へもろくに通えなかったのはこの祖母の世話を任せられたからでした。祖母は私が中学校を卒業する間際に亡くなりました。
私は卒業すると製麺工場に勤めさせられました。
そこで工場長をしていた夫に見初められたのは、19歳の年のことです。夫とは10歳も離れていました。
給料のほとんどをそのころ世話になっていた伯父夫婦に渡していましたので、貯金もありません。
夫以上に私のことを気に入ってくれた義父が嫁入り支度は一切こちらで引き受けると言ってくれたものですから、そのお言葉に甘え、着の身着のままで嫁になりました。
製麺工場は義父が社長で、夫の兄が専務を務めるという家族経営の会社でした。
結婚してからも家事の合間に工場に立ちました。子どもができると義父母はとてもかわいがってくれました。義兄の方には子どもがありませんでしたから、正真正銘の初孫だったのです。
多忙な毎日でしたが幸せでした。
歯車が狂い始めたのは義父が突然亡くなってからでした。
相続のことで兄弟間がぎくしゃくしだしたのです。会社を継いだのは義兄で、それは分り切っていたことなので問題はなかったのですが、実家を処分してマンションを建てたいと義兄が言い出したのです。夫の実家は開拓農家の末裔で、ずいぶん前に農業をやめ、土地は分散されていましたが、それでもなお市街地化された場所に結構な土地と家屋を所有していました。
義父母と同居していたのはわたしたち一家でした。無駄に広い家でしたが、夫にも私にも愛着がありました。義兄夫婦は市の中心部にあるマンションに暮らしていました。
将来この近くに地下鉄の駅ができる噂なので、今のうちに賃貸マンションを建てておきたいというのです。
夫は最初反対しましたが、結局は受け容れました。義兄が工場を譲られたのだから、このマンションからの収入は自分の方に大半がくるはずだと早飲み込みしたようです。話はそう単純にはいかず、義母を含め三人の共有財産になり、夫には思いがけない借金が残る形になったのです。
義兄は、部屋が埋まれば建築費用は自動的に差し引かれてその上利益が出るというのですが、夫はうまく義兄に丸め込まれたと恨むようになっていきました。
夫の行動が乱脈になり始めたのはこのころからです。幸い、義兄の言う通り賃貸収入が入ってくるようになりました。けれども、夫の心づもりでは義母はともかく、義兄が自分と同等に分け前に預かるのはおかしいというのです。
金銭のことは何一つ知らされていませんでしたから、私には答えようもありません。
そのころからです。夫が、頭の悪い女はこれだから困るなどと、私の学歴のないことを馬鹿にし始めたのは。
夫に親しくしている女性がいると知ったのは少し経ってからでした。相手の女性は大学出の才媛で、茶の湯やお華の嗜みもあり、お父様の仕事の関係で外国暮らしも長かったから語学にも堪能だとか。事態が発覚しても夫は済まないの一言もなく、却って私の至らないことを並べ上げてはなじる始末。
結局、夫の言いなりになって離婚届に判を押してしまいました。
義母は最初のうちこそその不道徳をたしなめていましたが、結局は私の味方にはなってくれませんでした。それどころか離婚が決まったとき、溺愛していた私の息子、啓吾を「あんたのような人に預けて置いたら、啓吾はロクな教育も受けられないばかりか飢え死にしてしまいますよ」と言って、渡してはくれなかったのです。
当面の生活費として、私が今まで手にしたことのなかったような札束を目の前に差し出されましたが、私は一切辞退させていただきました。これをもらったら将来息子を返してもらえなくなると思ったからでした。
そんなこんなで、着の身着のままで嫁に行き、着の身着のままで出てきました。
当面住まうところもありません。それまで製麺工場以外勤めた経験がなかった私には、付添婦の仕事は願ってもないものでした。
それに木暮医院の院長先生が、看護婦用の部屋が空いているので、そこへ住まわないかと言ってくださったのです。いまは看護師ですが、当時はまだ看護婦といっていました。
付添婦の仕事は24時間泊まり込みがほとんどですが、休みがまるでないわけではなく、また依頼のないときは自宅待機になります。そんなときいる場所がないと困るわけです。家政婦協会のようなところから派遣されてくる付添婦には、部屋と食事を用意してくれるところもあるようですが、たまたま病院の張り紙で仕事を見つけた当時の私は、世間の仕組みなど何一つわかりませんでした。
路頭に迷った私の目に飛び込んできたのが木暮医院の付添婦募集の張り紙だったことは、幸運でした。
木暮医院の院長先生は、木暮清太郎とおっしゃいます。夫人は20歳年下のすみれさん。すみれさんは後妻さんでした。院長先生には亡くなった前妻との間に一男二女があり、ご長男は医大を出て大学病院に勤めておりました。一番年上のご長女はアメリカに留学しているとかで、滅多に話題には上りません。何かしら事情があるようでしたが、誰もあえて話題にはしませんでした。
お家に残っていたのは末っ子で次女の朱音さんおひとりでした。朱音さんは気立てのいい、おとなしすぎるくらいのお嬢さんでした。後妻のすみれさんは普段は化粧けもなく地味にしつらえていましたが、元々はっきりとした目鼻立ちをしていましたからきちんとお化粧をすれば若さが匂い立ってくるようです。
ですから朱音さんの年の離れたお姉さんと見えなくもありませんでした。外見には仲の良い姉妹に見える継母と継子でした。
ご長女が遠くに行ってしまわれたというのも、院長先生が娘の自分とさほど年の違わない女性を再婚相手に選んだことが原因だったとどこからともなく聞こえてきました。
後に分かったことですが、朱音さんにしたところで、すみれさんに対して何のわだかまりもないというわけではないようでした。愛する父親を困らせたくないという殊勝な心掛けから、そのように振る舞っていただけで、真実心を許していたわけではないようです。
朱音さんは院内に立ち入ることはなく、それは院長先生も好まなかったので、お会いしたのはずっと後のことです。
付添婦の食事は自前で賄うのが原則ですが、患者さんが退院されて間が空くことがたまにあります。そんなとき、すみれさんのご厚意で看護婦さんと一緒に食事をとらせてもらうことがありました。当然、食事代は実費で支払いますが、これはとてもありがたいことでした。
住まわせていただいている部屋には台所はなく、天候が悪くても出来合いのお弁当を買ってくるか外へ食事に出なくてはならないからです。
年が近いこともあって、すみれさんは私によく声をかけてくれました。それにはすみれさんなりの計算もあったようでしたが、人に飢えていた私にはただありがたく思われました。すみれさんは院長先生と結婚してからは仕事をせず、もっぱら主婦業に専念していらっしゃいました。
現役時代、すみれさんは有能な看護婦だったといいます。そのまま院長先生の傍でお仕事をしてもよさそうなものですが、女ばかりの職場ですから、無益な軋轢を生じさせるようなことを避けようという院長先生のお考えがあったのだと思いました。
けれども、これも後になって分かったことですが、実はこの家にはお婆さんが二人いたのです。一人は院長先生のお母さま、もう一人は先妻のお母さまです。先妻のお母さまはほとんど寝たきりでした。そのお世話をするのがすみれさんの主要な役割。すみれさんが専業主婦になられたのにはこういう事情があったようでした。
それらのことのほとんどは朱音さんから聞いたことでした。職員用の食堂に院長先生のご家族が現れるなんてことはまずないことなのですが、偶に院長夫妻がそろって外出なさる折があって、そんなときに朱音さんがそっと顔を出すようなことがありました。
24時間体制の特別室の患者さんが亡くなって、次の依頼が入るまで10日ほど間が空いたことがありました。金銭的には上がったりの状態ですが、半年以上も難しい患者さんのお世話をしてきた私には、お金のことより、何もせずぼうっとしていられる時間がありがたかったものです。
今までご夫妻が外出なさるときは外から付添婦を頼んでお婆様の世話をしてもらっていたそうですが、その時ちょうど仕事の空きがあった私は、すみれさんから特別にお婆様のお世話を頼まれました。
病棟の看護婦や付添婦がご自宅に招かれることは皆無でしたから、すみれさんは余程私のことを信用してくださっていたのだと思います。私は自分から噂話をしたり、聞き出すようなことは一切ありませんでしたから。
院長先生のお母さまはとてもお元気でしたので頻繁に外出なさっていました。
着物が好きで、どこへ行くにも和服です。多少肥えていますが色白で張りのある肌をしていらっしゃるので、もうすぐ喜寿だと聞いて驚いてしまいました。
気風のいい女将のような感じですが、朱音さんによれば、気位の高いなかなかの難物のようです。
寝たきりの先妻のお母さまは、今言うところの認知症、当時はボケていると言われていました。
たった一日のお世話でしたが、このお母様はボケてなんかいないと私は思いました。
院長先生は一人息子、先妻も早くに兄弟を亡くして一人娘になっていたためにどちらのお母さまも院長先生のお宅で暮らすことになったそうです。先妻のお母さまが今のようになられたのは、先妻である娘さんが亡くなってからだと言います。
「早く娘の傍に行きたいのですけれど、手にも足にも力が入らず、紐を結わえることすらできません」
わたしの手を取り、そう言ってさめざめと泣かれるのです。
「養老院にでもやってくださいと何度も頼みましたが、皆さんお優しくて」
そして私の顔を穴のあくほど見つめて、
「お願いです、後生ですから、薬局から死ねる薬をもらってきてくださいませんか」とおっしゃるのです。
当時は病院で薬が処方されておりました。先妻のお母さまは骨ばった小さな手を合わせて、到底無理な頼みごとをなさるのです。皮膚はもう蝋のように白く、命の灯は今にも消えそうでした。
「奥様、私は貧乏で人様の下のお世話ばかりして生きておりますが、後ろに手の回るようなことは一生いたしたくありません」と私は丁重にお断りいたしました。
「命は人が決められるものではありません。それに、奥様のお世話をすれば、そのお世話をしたわたくしが功徳を積めるのです。わたくしは祖母からそう教わりました」
「まあ、あなたは何てお優しいことをおっしゃるのでしょう」と、先妻のお母様はまたさめざめと泣かれました。
これは私が親戚の家を転々として暮らしていた時、お世話をした祖母の言葉です。子どもの頃のつらい体験が思わぬ時に役に立ちました。思い出してみますと、人をお世話することを覚えたのはこの時でした。
祖母はとても寒い部屋に寝かされていて、その下の世話をしろと家の人から命じられた時、とても嫌でした。
なぜならおしっこの臭いが部屋中に染みついているようで、側にいる私にまで臭いが移ってしまうかと思われたからです。
いやいやおむつ替えをしていた私に、祖母が言ったのが先の言葉でした。
「功徳をいっぱい積めば、今度は良いところに生まれてこれるんだよ」と祖母は言いました。
そうなのかと思いました。また生まれてこれるとしたら、父にも母にも早く死に別れることのない幸せな身で生まれてきたい。祖母のお世話を一生懸命しよう。単純な私はすぐそう決意しました。
私は小柄でしたが丈夫で、案外力持ちでした。祖母がこんなに寒い部屋に寝かせられるのはおしっこの臭いのせいなのです。
祖母は敷布団の上にビニールの敷物を敷いて寝かせられていましたが、そのビニール自体が古くてひどい臭いを立てていました。それをはがし、納戸にあるレジャー用のシートを一枚失敬してきて敷き直しました。
祖母の寝間着から下着一切を取り換え、その日から私は祖母の部屋で休むようにしました。
できるだけこまめに取り換えては洗濯しましたから、祖母の部屋は以前に比べずっと臭わなくなりました。
祖母はわたしが傍にいないと不安がるようになり、私はほとんど学校へ行かなくなりました。友だちひとりいない学校より、祖母の世話をしている方がよかったのです。
その家に世話になっていたのは2年余りでした。祖母が亡くなると同時に、私も別の親戚の家に移されました。
先妻のお母さまは私の用意したおかゆをおいしそうに召し上がられ、大きな涙を一滴こぼされました。
「とてもおいしゅうございました。時々顔を見せてくださいましね」
その場面を襖の隙間から見ていた朱音さんの注進もあってか、それからも時々、私はこのお母様のお世話を任されることになりました。お母さまのお名前は萌子さんとおっしゃいます。朱音さんと同じように、私も萌子お婆様と呼ぶようになりました。
「萌子お婆様、夏子が参りました」と襖を開けて挨拶すると、萌子お婆様はにっこり微笑まれます。
「今日は面白いものを持って参りました」
私は手際よくおむつ替えを済ますと、膝をつけたまま半身を立てました。その日私がつけてきた前立て付きのエプロンには紅葉した山と細い道がパッチワークの手法で縫い付けてあります。道の先には店屋があります。ちょうどお腹の部分にそれは縫い付けてありました。後身頃まで続く大きなポケットには何日もかかって縫い上げた平たい人形を忍ばせています。
私は大きく息を吸い込んで昨夜一生懸命覚えたお話を語りだしました。途中で後見ごろのポケットに忍ばせておいた人形を取り出して人形芝居を始めました。
最近はエプロンシアターとかいって幼稚園や保育園で園児に見せているそうですけれど、それと同じようなことを私はやってみせたのです。ただマジックテープで貼り付けることまでは思いつきませんでした。
新見南吉の童話『手ぶくろを買いに』を、お母さん狐と子狐、手袋屋の店主の声色を使い分けて演じて見せたのです。子どもじみた趣向でどうかとは思ったのですが、孤独なお婆様を慰めるのに私にはこんなことしか思いつかなかったのです。
萌子お婆様は泣きました。母狐のやさしさ、手袋屋のやさしさ。けなげな子狐の愛しさ。
私までもらい泣きしてしまいました。
「あなたは器用なのね」
萌子お婆様は私のあかぎれだらけの手を愛おしそうになでて褒めてくださいました。
これ以上なでられては大泣きしそうだというところで朱音さんが現れ、どんなにほっとしたかしれません。
ところで、この童話は、かつて息子に何度も読み聞かせたものでした。息子はもうすっかり興味を失い、納戸の隅に放っておかれていたのを家を出てくるとき、乏しい荷物の中に忍び込ませてきたのでした。
朱音さんと私はなんとなくウマが合いました。私は仕事柄かあるいは育ちのせいでしょうか、時間をかけて食事をすることはありません。ですから最初のうちは食べ終えるとすぐに部屋に引き上げていました。
それがいつのころからか住み込みの看護婦さんとお喋りしたり、テレビを見てぐずぐずと食堂にいることが増えました。
気が付くと朱音さんが私の横に座って、そのうちぽつりぽつり学校のこと、友人のことなど話すようになっていました。
ある日、夜遅くたった一人で食事をしていますと、例のごとく朱音さんがそっと入ってきて私の横の椅子に腰かけました。そして、
「これ、夏子さんに上げる」といって、赤いリボンを結んだ小さな包みをくれました。
「あら、私にくださるのですか」
考えてみますと、私は幼いころはともかく、両親が亡くなってから今日まで、誰かにこうしてプレゼントを手渡された記憶がありません。
結婚生活の中でだってこのように美しく包んだプレゼントなどもらったことがないのです。お店に連れていかれ買ってもらったことはあります。でも、思いがけない時に手渡される心づくしの贈り物とはどこか違います。
別れた夫の不実に気づいたのも、夫のコートのポケットに入っていた小さな包みです。臙脂のベルベットのリボンで結んでありました。まさか夫が私にと思いもしましたが、翌日にはその包みはなくなっていました。
朱音さんが「早く開けてみて」とせっつくので開いてみますと、それは手作りらしい小さな猫のぬいぐるみでした。
「まあ、かわいらしい。朱音さんが作ったの」
「夏子さんの人形を見て作ってみたくなったの。今日は母の日でしょ」と朱音さんは少し頬を染めて微笑みました。
「いいんですか、私がいただいて」というと、朱音さんはちょっと額を曇らせ、
「黒猫なんてあの人は変な風に勘繰るに決まってますもの」と答えました。
お母さまでもママでもなく、あの人という言い方に少し驚きました。
仲睦まじそうに見せながら、小さなことにも互いの腹の中を探りあっているような冷たい修羅の図を垣間見た気がして、私は背筋が寒くなってしまいました。
朱音さんの言葉によりますとすみれさんはさばけているようでいて、決して油断してはならない人のようでした。
それからも私は時々萌子お婆様のお世話を任されることがありました。
それとなく聞き知ったところによりますと、この医院は元々萌子お婆様の亡くなられた御主人が開かれたものでした。木暮清太郎先生はその一人娘と結婚してここを引き継がれたのでした。
先生は情の深い方ですから萌子お婆様のご恩に報いなければと、奥様が亡くなられた後も大切にお世話なさっていたのでした。
私はすみれさんの立場を考えてみました。看護婦としてお世話をしていたときとは違い、何をしてもしなくても亡くなられた先妻、萌子お婆様にとっては一人娘と比較される。誰も比較などしなくても本人はそう意識して常に緊張にさらされているに違いありません。気の毒なことだと思いました。いっそ元のままの方がどんなに気楽だったことでしょう。
ある日、珍しくすみれさんが職員の休憩室に来られました。頂き物のお菓子を持ってきてくださったのです。私はその日依頼主の娘さんから休暇をいただいて休んでいました。これから24時間をどう使おうかと思っていましたが、外はあいにくの雨なのでした。
「萌子お婆様が夏子さんに会いたがっていますわ。後で離れにいらしてくれませんか」と、すみれさんは少し疲れた顔で言いました。
「お疲れのようですね」
「こんな雨の日は鬱陶しくてたまらないわ」
「何もかも完璧になさろうとするから疲れてしまうのではないですか」と、私は微笑みながらいいました。
「そう見える? わたしこの頃自分がどんな人間だったのか分からなくなってきたの」
「それだけご自分を押し殺してこられたんですね。奥様の頑張りはみんな分かっています。少し肩の力を抜いて、たまにはわがままを言ってもいいのではないでしょうか。互いに気を使いあっていると、いまに皆崩れてしまいます」
「萌子お婆様にはとくに気を使うの。私のせいで亜紀さんがあんなに早く亡くなられたと思っているのではないかと勘繰ったりして。亜紀さんの存命中は、先生とは医者と看護婦の関係で、後ろ暗いことなんかひとつもなかったのよ」
すみれさんはわたしの目をじっと見つめたまま言いました。私がどのように受け取るか、内心の皮肉な思いを眼の色に表すのではないか、と執拗に見続けていたに違いありません。
「そんなこと誰も勘繰ってなどいません。萌子お婆様だって。萌子お婆様はほんとに謙虚な方で感謝しか心にないと思います。前の通りゆったりと笑顔で接して差し上げるだけでいいのではないかと思います」
私は雇い主の奥様に僭越だとは思いましたが、率直に申しました。このころには真面目で繊細なすみれさんに好感を抱くようになっていたのです。
「そうかしらね。それに朱音さんにもどう接していいのか」
すみれさんは俯いて、小さく嘆息しました。
「以前は仲良くやっていらしたんでしょう」
「お世話係の看護婦と雇い主の娘という関係なら気楽なものよ。当時はお母さまへの不満なんかも口にしていたけれど、そのことすら今は口惜しいのではないかしら」
すみれさんは途方に暮れたように呟きます。
「亡くなられた方と肩を並べようと思わない方がいいのではないでしょうか。この国では死者は神仏の部類に入ってしまいます。神仏と張り合おうとしても無理ですもの」
「それはそうね。だけどここだけの話。私あの方の生前から先生のこと慕っていましたし、自分があの方の立場にいられたらどんなにいいだろうと思ったこともあったのよ」
「まじめな方なんですね。それが罪悪感になってご自分を縛り上げていらっしゃるんですわ。そんなことくらい人間は誰でも思いますよ。気になさらないで」
私は微笑みながら、すみれさんに言いました。
「ありがとう、夏子さんに聞いてもらって心が軽くなったわ。3時に離れに来てね」
すみれさんはそう言いおいて休憩室を出ていきました。さっきよりずっと柔らかな表情になり、頬には血の気もさしていました。
部屋に戻って昼寝でもしようかと思っていると、今度は木暮先生のお母さま、真希さんが入ってこられました。
「こんな雨だと出かけるところもなくて。ちょっとお喋りさせて」
雨ばかりか強い風も吹いているので、出歩くのが好きな真希さんでも億劫になってしまうのでしょう。
「夏子さん、洋裁はなさる?」
真希さんは洋服生地をもってこられたのでした。
「ミシンがないので」と私が言うと、真希さんはぱっと顔を輝かせて、「だったらわたしのを上げるわ。見て、私の手。洋裁なんか何にもできなくなっちゃった」と手をかざします。
「まあ、リウマチなんですか。痛まないのですか」
私は差し出された真希さんの手を取って思わずさすっていました。真希さんの手は関節が飛び出てきて変形しだしているのでした。
「痛むわよ。特に今日みたいな日は。そのうち足もこんなになってくるのかしらね。今のうちだと思って遊び歩いているのよ。それにわたしがいると目障りでしょ。姑二人なんてぞっとしないもの」
「たまには若奥様に、痛い、痛いってぼやいてみせるとよろしいのに。まじめな優しい方ですよ。その方がきっと喜ばれると思います」
「そうかしらね」と真希さんは半信半疑ながら、率直な方なのでしょう。「わかったわ。夏子さんの言うとおりにしてみる」と言ってにっこり微笑まれたのでした。「だから、これ縫って。型紙はあるのよ」と用意してきた型紙とデザイン画を出して、私にあれこれ注文をするのでした。
「卓上ミシンだから、後で取りに来て」と言いおいて、真希さんは母屋に戻っていかれました。
3時に萌子お婆様のところでお茶を呼ばれ、本を読んで差し上げて、帰りに真希さんのお部屋に寄ってミシンをいただいてきました。
それから風雨の中、買い物にでました。糸や裏地、芯など一そろい買い求めるためです。近くの洋品店へ行くと、学校帰りの朱音さんが店先で小物を吟味していました。
「あら、朱音さん、今お帰り?」と私が声をかけると朱音さんは、いたずらがみつかつたときの子どものような顔をなさいました。
まさか万引きでもしようとしていたのかと私はどきどきしましたけれど、朱音さんは私の横にぴたりと体を付けて、
「あさって、あの人の誕生日なの。何か上げた方がいいでしょう」というのです。
先日、私にすみれさんの悪口を言った手前、贈り物を吟味していることにバツの悪さを覚えたのに違いありません。朱音さんも素直な心優しい少女なのです。
私はさっきとんでもない想像をしてしまったことを反省しながら、そりゃ、もちろん、と即座に応えました。
「朱音さん、嫌なこと言ってごめんなさいね」ついでに私は前から気になっていたことを口にしました。「あの人っていう言い方、何とかなりませんか。聞いていてあまり気分がよくありませんよ」
朱音さんはお茶目にチロリと舌を出し、
「そうですよね。でも、ママとか、お義母さんとか、まだちょっと言えない」と、困った顔をしました。
率直なところが朱音さんの良いところです。腹の探り合いなんか、朱音さんにはふさわしくないのです。
「私たちふたりの間では、すみれママと呼びましょう」と私は提案しました。さらに、
「この間、私に作ってくださった人形、あれね、もう一度作ってみたらどうかしら。買ったものよりずっと喜んでくださると思いますよ」と言ってみました。
「すみれママは、すみれママなりに何とかお家の人たちの役に立とうと必死なんですよ。必死過ぎてくたびれるくらいに」と私は言いました。
「悪い人ではないんです。それはあたしも分かっているの。でも、死んだお母さんのことを考えるととても複雑な気持ちになって」
朱音さんはとても辛そうな顔をしました。きっと朱音さんだってすみれさんと仲良くしたいと思っているのだと確信しました。
「何でも素直に受け取る。素直に行動に移す。反応をあれこれ憶測しない。つまり、朱音さんは朱音さんらしくすればいいんですよ。当たりたいときは当たればいいし、でも、機嫌が戻ったら率直に謝る。朱音さんてそういう女の子でしょう」
「ふふ、夏子さんに言われると、そんな女の子だった気がする」と、朱音さんは頬を染めました。
「亡くなったお母さまだって皆さんが仲良く幸せに暮らしていると幸せだと思いますよ」
そうして朱音さんは小物用の端切れをいくつか買いました。その後、朱音さんの作った愛らしい黒猫が、すみれさんのキーホルダーにしっかりとむすびつけられているのを見て、私はとてもうれしくなりました。
それから木暮家には明るい笑い声が響くようになっていきました。
ずっと離れにひとりでいた萌子お婆様は、天気のいい日など庭に出してもらって、みんなでお茶をしたりバーベキューを楽しんだりするようになりました。
そんなある日のこと、木暮医院の勝手口に一人の男の子が立っていました。
すっかり大きくなって頬にニキビなんかつくつていましたけれど、私にはそれが愛しい息子であることが一目でわかりました。