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世界史の歴史地図へのお誘い
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特集 世界観の拡大の歴史

−世界観の拡大を世界地図の歴史でながめると−



ヘカタイオスの世界地図  ヘロドトスの世界像  エラトステネスの世界図  プトレマイオスの世界図

イドリーシーの円形世界図  トスカネリの地図  シェーナーの世界図  メルカトルの世界図  テイセイラの日本図

これらの図版は、『世界史地図・図解集』・『基本白地図』にも収録されています。

『世界史地図・図解集』・『基本白地図』には、そのほかに、つぎの世界地図が収録されています。


ヴァルトゼーミュラーの世界地図  アニェーゼの世界図  ヨアン=ブラウの世界地図




ヘカタイオスの世界地図


ヘカタイオスの世界地図

 世界地図を最初につくったのはバビロニア人ですが,ギリシア人もすぐに,地図製作の技術を発達させました。この地図はヘカタイオスの考案にもとづくもので,政治上の意思決定に利用するためにつくられました。ヘロドトスによれば,この地図は青銅板に彫られており,ペルシア人の支配に抵抗してイオニアのギリシア人植民市が反乱をおこした(前499〜前494)さいに,ミレトスのアリスタゴラスがスパルタに運びました。
 ヘカタイオス(前550?〜前475?)はギリシア最古の歴史家で,最古の散文家の一人です。ミレトス出身で,政治家としてイオニア植民市の反乱にも関与しました。ひろく旅行し,世界地誌で地図も含む『世界周遊』と歴史的著作『系譜』を著し,ヘロドトスに影響をあたえ,彼の仕事の先駆となりました。



ヘロドトスの世界像


ヘロドトスの世界像

 ヘロドトス(前485ころ〜前425ころ)は小アジアのハリカルナソス出身の歴史家です。ペルシア戦争を主題に,自らの大旅行の見聞を交えた『歴史』を著しました。これは世界最古の個人による体系的な歴史叙述にあたり,彼は「歴史記述の祖」と呼ばれています。彼の旅行は北は黒海北岸から南はアフリカ北岸のキレネ,エジプト南端のエレファンティネにおよび,フェニキアのティルス,ガザからメソポタミアのバビロンに及んだと推定されます。しかし小アジアの内陸部やアケメネス朝ペルシアの都スサ,また西方ではシチリア島は訪れていません。



エラトステネスの世界図


エラトステネスの世界図

 アレクサンドリアのムセイオンの館長を務めたエラトステネス(前275ころ〜前194)の世界図は現存しません。ギリシア人地理学者ストラボン(前64〜後21ころ)の『地理誌』によって復元したものです。初期のギリシア人は大地を円盤のようなものとみなしていたことは,前6世紀のヘカタイオスの地理書から復元した世界図によって知られています。しかしギリシアではアリストテレスによって地球が球体をなすことが認められました。さらにエラトステネスが前3世紀に地球の大きさを測定し,実際の地球の大きさ約4万kmと比較して,1割ほど過大な44500kmとし,古代としては驚くほど正確な結果を得ました。



プトレマイオスの世界図


プトレマイオスの世界図

 プトレマイオス(生没年不詳)はアレクサンドリアで活動した,2世紀のギリシアの天文学者,地理学者,数学者です。彼の地球は球形で宇宙の中心に静止しているとする天動説は,コペルニクスが現れるまで絶対的権威を持ちました。プトレマイオスは地図の円錐投影法を考察し,当時ヨーロッパ人に知られていた世界の約8000の地点の緯度・経度を推定して,東はシルクロードを通じての知識によって「絹の国」の中国まで描かれています。しかしアフリカは赤道以南では無限に広がり,またインド洋は内海として描かれています。またインド半島が東西に連なる平坦な海岸線で描かれていたり,アフリカ内部の「月の山脈」から流出するナイル川の2本の源流がともに湖に流入してから北流していくように描かれています。



イドリーシーの円形世界図


イドリーシーの円形世界図

 12世紀にイドリーシーはシチリア王国のルッジェーロ2世(在位1130〜54)の命を受けて,銀盤に彫られた世界の平面球形図を作成します。プトレマイオスの世界図にイスラームの地理的知識を加えて描かれたもので,プトレマイオスの世界図では内海となっているインド洋が外海に通じ,アフリカの最東端にワクワク(倭国?)を記載しています。これが日本であるとすれば,西方の地図に日本が記された最初です。バグダードとイベリア半島のトレドの間で3度の誤差しかないほど,緯度表記は非常に正確です。イドリーシー(1100〜65/66)はイスラームの地理学者で,モロッコのセウタの名門出身です。当時イスラーム学芸の中心地であったイベリア半島のコルドバで学び,イベリア半島各地,アフリカ北岸,小アジア,英仏海岸などを実地に見聞した後,シチリアのノルマン王ルッジェーロ2世に仕えます。

トスカネリの地図


トスカネリの地図

 トスカネリ(1397〜1482)はフィレンツェの天文・地理学者で,地球球体説を主張し,コロンブスに西まわりルート(大西洋航路)を選ばせる論拠を与えたとされます。この地図は1474年コロンブスがトスカネリによって贈られたものとされるものです。この地図によれば,アフリカ西岸から西へ向かって経度にして90度の距離にジパング(日本)が描かれており,アメリカ大陸の存在は示されていないので大西洋を西へ西へと向かって行けばジパングに到達することになります。東まわりで陸路を行くよりは,早く確実に行けるとコロンブスは確信したのも無理はなかったのでしょう。ただし,この地図は後世の偽作であるともいわれています。

シェーナーの世界図


シェーナーの世界図

 シェーナーの1523年作成による木版刷地球儀ゴアの世界図であり,マゼランの世界周航(1519〜22年)の航路が描かれています。南半球の大部分は依然として不明で残されています。北半球の大陸と対応して,南半球にも巨大な大陸が存在すると想像されたギリシア以来の考えが復活して,この世界図には南半球に架空の「南方大陸(テラ・アウストラリス)」が大きく描かれています。しかし18世紀には,クックの3回にわたる太平洋の探検航海によって,南方大陸は幻想の大陸として消失し,それにかわってオーストラリア大陸の実在することが明らかとなりました。



メルカトルの世界図


メルカトルの世界図

 1569年に,フランドルの地理学者メルカトルによって正角円筒図法による銅版の世界図(126×200cm)が製作されました。すでにこのときまでに,コロンブスによるアメリカ大陸の発見やヴァスコ=ダ=ガマによるインド航路の開拓,マゼラン一行による世界周航がおこなわれ,アジアやアフリカの知識も正確になっていました。しかし,オーストラリアや南極はいまだ知られて折らず,この地図では架空の大陸が描かれています。また日本の存在は知られており,この地図にも描かれています。中世以降,北極探検は東アジアへの最短路の開拓や捕鯨,毛皮猟などの目的として行われました。その北極地が海洋であることは,1895年ナンセンが確かめ,1909年ピアリが初めて北極点に到達しました。

テイセイラの日本図


テイセイラの日本図

 1595年のオルテリウスの地図帳所蔵のテイセイラの日本図は,ヨーロッパで刊行された日本のみを単独に示した最初の日本図です。日本の太平洋岸に架空の島が描かれています。西方の世界に日本が知られるようになったのは,9世紀に世界のいちばん東にワクワク(倭国)という国があるとアラビア人によって伝えられたのが最初であるとみなされています。またヨーロッパに日本のことを黄金国チパングとして伝えたのはマルコ=ポーロです。やがてアジアに進出したポルトガルは,中国人を通じて中国の東にジャパンという国が存在することを知るようになります。そして1543年のポルトガル人の種子島渡来をさきがけとして,ポルトガル船の来航やキリスト教宣教師の来日によって,実際の日本についての知識がヨーロッパに伝えられました。また実測による正確な形状の日本がヨーロッパにも知られるようになったのは,高橋景保から贈られた伊能図を基礎にしてシーボルトが作成した日本図です。