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『世界史歴史地図問題(CD-ROM版)』の見本問題

−東方問題とロシア  シーア派の世紀  中国異民族国家の興亡−



東方問題とロシア(基本問題)

次の文の( )に適語を入れ、問いに答えよ。
 ヨーロッパとアジア・アフリカに君臨したオスマン帝国は、第2次(1)包囲失敗を契機に弱体化が進んだ。1699年に締結された(2)条約は、オスマン帝国とヨーロッパとの軍事的バランスが逆転する分岐点になったことでよく知られている。その結果、オスマン帝国は、オーストリア、ロシアなどに広大な領土を割譲することになった。
 一方、オスマン帝国の支配下にあったアラビア半島やエジプトでも、アラブ民族の覚醒が起こった。アラビア半島では、18世紀中頃、アラブ民族の覚醒をうながすきっかけとなるイスラーム改革運動が(3)派によって起こされた。この運動はアラビア半島の豪族サウード家の支配拡大運動と結びつき、現在の(4)王国につながる王国が誕生した。
 (5)のもとで近代化を強くおしすすめたエジプトでは、オスマン帝国との間で、シリア地域の支配をめぐって軍事的対立が起き、両国の間で2度にわたって(6)戦争が起こった。この戦争でエジプトは勝利を収め、シリア地域の支配を要求した。しかし、1840年に開催された(7)会議では、エジプトのシリア地域の支配は認められなかった。以後エジプトは、イギリスとフランスの干渉を受けることになった。
 また、黒海の不凍港から(8)両海峡への通行を求め領土の拡大を画策していたロシアは、オスマン帝国に対して(9)保護権を求めて、1853年(10)戦争を開始した。しかし、イギリスやフランスなどがオスマン帝国を援助したこともあり、ロシアは戦争に敗れ、1856年に締結されたパリ条約で(8)両海峡と黒海の中立化が認められ、ロシアの(11)政策は阻止された。
 (10)戦争中に即位したロシアの皇帝(12)はこの戦争での敗北によって、自国の近代化の必要性を痛感することになり、そのために1861年(13)を発布し、人口の大部分を占める農奴に人格的自由と土地の所有を認めた。これは地主に有利で農民にとってさまざまな制限が加えられていたが、ロシアの資本主義の発達の出発点となった。(12)はその後、1863年の(14)の反乱や農民反乱の頻発の事態に直面すると反動化し、専制政治をいっそう強化した。
問.(10)戦争の激戦地セヴァストーポリの位置を下図のA〜Dから答えよ。

東方問題とロシア


1(    )2(    )3(    )4(    )5(    )6(    )
7(    )8(    )9(    )10(    )11(    )12(    )
13(    )14(    )問(    )

(解答)
1(ウィーン)2(カルロヴィッツ)3(ワッハーブ)4(サウジアラビア)5(ムハンマド=アリー)
6(エジプト=トルコ)7(ロンドン)8(ボスフォラス・ダーダネルス)9(ギリシア正教徒)
10(クリミア)11(南下)12(アレクサンドル2世)13(農奴解放令)14(ポーランド)問(A)



シーア派の世紀(応用問題)

次の文の( )に適語を入れ、問に答えよ。
 10世紀は、イスラーム世界の歴史において「シーア派の世紀」とも呼ばれる。イスラーム世界の東西の主要地域に強力なシーア派政権が出現したからである。東方では、世界最大の塩湖である(1)海の南岸地域のダイラム地方に興ったブワイフ朝がイラクへと支配領域を広げ、アッバース朝の首都バグダードを占領した。ブワイフ朝の君主は、アッバース朝を存続させつつ、大(2)として政治の実権を掌握した。
 ブワイフ朝はシーア派の中の12イマーム派の王朝だったが、西方に興ったファーティマ朝はシーア派の一派のイスマーイール派を奉じていた。ファーティマ朝は、同派に特徴的な宣教活動と北アフリカ先住民の(3)人のクターマ族の軍事力とが結び付くことで、現在のチュニジアの地に誕生した。なお、ローマ世界の「非文明人」に由来する呼称である(3)の人々は、「高貴なる自由人たち」を意味する「イマジゲン」と自称する。
 ファーティマ朝の君主は、スンナ派のアッバース朝カリフへの対決姿勢をあらわにし、シーア派の最高指導者を意味するイマームの称号に加えて、カリフとも称するようになった。969年には念願のエジプト征服を実現し、城郭都市(4)を建設すると、王朝の新首都と定めた。10世紀から11世紀にかけて、インド洋と地中海を結ぶ国際交易の幹道が従来のペルシア湾経由から紅海経由へと変化したため、ファーティマ朝は、豊かなエジプトの農業に加えて、国際商業によっても繁栄を極めた。しかし、12世紀後半になって十字軍勢力のエジプト侵入が繰り返されるようになると、王朝は滅亡へと向かう。
 ファーティマ朝にとって代わったのは十字軍国家ではなく、スンナ派のセルジューク朝の流れをくむザンギー朝の武将の(5)が創始したアイユーブ朝であった。そして、このアイユーブ朝とそれに続く(6)朝の時代には、インド洋と地中海の両世界を結ぶ香辛料交易において、(7)商人と呼ばれる大商人たちが活躍した。彼らはアレクサンドリアをはじめとした地中海の港において、ヴェネツィアやジェノヴァなどの南欧の商人たちとさかんに取引をし、巨富を築き、社会の名士として慈善事業にも力を注いだ。
問 下図のA〜Gに適語を入れよ。

シーア派の世紀


答え
1(     )2(     )3(     )4(     )5(     )
6(     )7(     )A(     )B(     )C(     )
D(     )E(     )F(     )G(     )

解答
1(カスピ)2(アミール)3(ベルベル)4(カイロ)5(サラディン(サラーフ=アッディーン))
6(マムルーク)7(カーリミー)A(後ウマイヤ)B(ファーティマ)C(ビザンツ)
D(アッバース)E(ブワイフ)F(サーマーン)G(カラハン)



中国異民族国家の興亡(総合問題)

(1)下のA〜E5枚の地図は、(a清 b金 c西夏 d匈奴 e元)の五つの異民族の活動範囲、またはその国家(王朝)の版図を示している。地図A・B・C・D・Eは、各々a・b・c・d・eのうちのどれを示すものであるか。最も該当するものをa・b・c・d・eの記号で答えよ。
(2)地図A・B・C・Dに記されている●印の(あ・い・う・え)は、各々の国家の首都所在地を示している。各々の首都名は、下記のイ〜リのどれであるか。最も該当するもの選び、イ〜リの記号で答えよ。ただし、もし該当するものがない場合には、その名前を答えよ。
イ.臨安 ロ.南京 ハ.成都 ニ.興慶 ホ.サマルカンド ヘ.大都 ト.上海 チ.黒水城 リ.中都(燕京)
(3)地図A・B・C・Eに記せられている○印の(は・ひ・ふ・へ)は、各々の異民族が活躍していたころの有名な文化・商業貿易などの中心地の所在を示している。これらのうち、
(は)は、Aの異民族によって滅ぼされた前王朝の首都で、そのころの文化の中心地でもあった都市である。
(ひ)は、当時、明州・杭州などとともに栄えた貿易港で、その名は、マルコ=ポーロによって西方にも知られていた。
(ふ)は、当時の唯一の公認海外貿易港で、独占的特許商人が活躍していた所である。
(へ)は、1924年にソ連の探検隊によって発見された遺跡のある所で、当時の王族の墳墓の地であるとされている。
以上の(は・ひ・ふ・へ)の地名を答えよ。なお、このうちの一つはカタカナでよいが、他の三つは漢字で答えよ。
(4)地図Cに記された○印の(イ・ロ)は、この王朝の時代に結ばれた有名な対外条約の締結地として知られる所である。これらの地名を、カタカナで答えよ。(イ・ロは、いずれもこの王朝の領域外にあることに注意せよ。)

中国異民族国家の興亡


(1)A(  ) B(  ) C(  ) D(  ) E(  )
(2)あ.(  ) い.(  ) う.(  ) え.(  )
(3)は.(    ) ひ.(    ) ふ.(    ) へ.(    )
(4)イ.(    ) ロ.(    )

(解答)
(1)Ab Be Ca Dc Ed (2)あ.リ い.へ う.北京 え.ニ (3)は.開封 ひ.泉州 ふ.広州 へ.ノイン=ウラン (4)イ.ネルチンスク ロ.キャフタ



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