最終更新日2024年12月20日
世界史の歴史地図へのお誘い
大学入試世界史歴史地図問題
−インド・東南アジアの植民地化−
次の文の( )に適語を入れ、問いに答えよ(東北学院大・中央大 改)。
インドでは18世紀に入ると、各地に地方勢力が割拠し、次第に中央集権的支配が崩れてきた。イギリスの(1)は、フランスに支援されたベンガル太守軍を(2)において破り、本格的なインド支配の基礎を築いた。その後もイギリスは、(3)戦争、マラーター戦争などを戦い、インドにおける領主支配を拡大した。直轄支配とした地域において農民から地税を徴収するとともに、イギリスの機械工業で生産された綿布をインドに輸入することによってインド伝統の手織綿布を急速に衰退させた。
こうしてイギリスのインド農民に対する収奪が厳しくなると、各地にイギリス支配に対する不満が高まり農民反乱が起こり、社会不安が一気に増していった。1857年に起こった(4)は、北インドを中心として農民や商工業者のみならず地主や支配層も参加したため、大規模な反乱となった。しかし、明確な民族的理念と指導者を欠いていたため鎮圧されてしまった。イギリスは、皇帝を廃し、さらには(5)を廃止し、インドをイギリス本国政府の直轄統治下においた。
東南アジアに進出したオランダは、1623年の(6)事件をきっかけに香辛料貿易を独占し、一時は莫大な利益をあげた。その後、ヨーロッパにおいて香辛料の商品価値が下がったことによって香辛料貿易は衰退した。19世紀になるとオランダは、ジャワ島に(7)制度を導入した。この制度の結果、現地の人々は、不安定な生活を強いられ、飢饉が続発した。そして、幾度か抵抗戦争が勃発することになった。
フランスは、インド経営をめぐりイギリスと争い、これに敗退したため、インドシナへと目を向けるようになる。当時、ベトナムには、フエ(ユエ)に首都をおく(8)朝があった。フランスは、1858年から1862年にかけて、この王朝と戦争をおこない、これに勝利して1883年にはベトナムを保護国とした。これに対し、(9)朝がベトナムへの宗主権を主張したため、フランスと(9)朝の間で(10)戦争が勃発することになった。この戦争に勝利したフランスはベトナムを確保し、しだいにインドシナ半島での支配領域を広げ、フランス領(11)を形成した。
問.下図は東南アジアの植民地化を示している。ABCDの地域を植民地とした国を答えよ。なお、Dについては、1898年以降、植民地とした国を答えよ。
答え
1( )2( )3( )4( )5( )
6( )7( )8( )9( )10( )
11( )A( )B( )C( )D( )
解答
1(クライヴ)2(プラッシー)3(マイソール)4(インド大反乱(シパーヒーの乱))
5(東インド会社)6(アンボイナ)7(強制栽培)8(阮)9(清)10(清仏)
11(インドシナ連邦)A(イギリス)B(フランス)C(オランダ)D(アメリカ)