最終更新日2024年12月20日
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日本史の学習室

中国分割と日英同盟

次の文の( )に適する語句を入れ、図版の空欄に適語を答えよ。

 (1)戦争によって中国(清)の弱体ぶりを知った欧米列強は、あいついで中国に勢力範囲を設定していった(中国分割)。まず1898年に、(2)が山東半島の膠州(こうしゅう)湾を、ついでロシアが遼東半島の(3)・(4)を、さらにイギリスは(5)半島・威海衛を、翌年に(6)が広州湾を租借し、各国はこれらの租借地を拠点に鉄道建設などを進めていった。アメリカは中国分割には加わらなかったが、1898年には(7)を併合し、ついで(8)を領有した。しかし、中国に関しては、翌年に国務長官(9)が門戸開放・機会均等を列国に提案して、各国の勢力範囲内での通商の自由を要求した。
 1900年に入ると、中国では「扶清滅洋(ふしんめつよう)」をとなえる排外主義団体義和団が勢力を増して各地で外国人を襲い、北京の列国公使館を包囲した(これを(10)という)。清政府も義和団に同調して、列国に宣戦を布告した(これを北清事変という)。日本を含む列国は、連合軍を派遣し、義和団を北京から追って清を降伏させ、翌年には清と(11)を結んだ。これにより、列国は清政府に対し、巨額の賠償金と首都北京の公使館所在区域の治外法権、および公使館守備隊の駐留などを承認させた。
 宗主国であった中国(清)の敗北は、朝鮮の外交政策にも影響を与え、ロシアの支援で日本に対抗する動きが強まり、大院君の親日政権は三国干渉後、まもなく閔妃(びんひ)らの親露派に倒された。日本の公使三浦梧楼(ごろう)が閔妃殺害事件をおこすと、国王(12)はロシア公使館に逃れ、親露政権が成立した。この政権は、日本に対抗する意味もあって、1897年、国号を(13)(韓国)と改め、朝鮮国王も皇帝を名乗った。
 北清事変を機にロシアは中国東北部(「満州」)を事実上占領し、同地域における独占的権益を中国(清)に承認させた。韓国と陸続きの中国東北部がロシアの手中に入れば、日本の韓国における権益がおびやかされるため、日本はロシアとの協調政策を変更し始めた。日本政府内には伊藤博文をはじめロシアとの「満韓交換」を交渉でおこなおうとする(14)論もあったが、桂内閣はイギリスと同盟してロシアから実力で韓国での権益を守る対露強硬方針をとり、1902(明治35)年に日英同盟協約が締結された(これを(15)という)。
 (15)の成立後もロシアは満州に駐兵を続けたので、政府は対露交渉を続けるかたわら開戦準備を進めた。日本国内では、キリスト教徒の(16)や『平民新聞』を創刊した社会主義者の(17)・堺利彦(さかいとしひこ)らが、非戦論・反戦論をとなえ、国内世論も当初は戦争を好まなかったが、1903(明治36)年に結成された対露同志会などが決戦を声高に主張するなか、しだいに開戦論に傾いていった。

中国分割と日英同盟


(ワンポイント知識)

・英は南アフリカ戦争、米はフィリピンのアギナルドの乱に苦しんでいたため、義和団事件に兵力を割けなかった。そのため、鎮圧の主力はロシアと日本になった。

(センター試験 改)

次の史料T〜Vについて、創刊時期の古いものから順に答えよ。

中国分割と日英同盟3


解答 U→V→T
解説
T.『万朝報』記者をやめた堺利彦・孝徳秋水らが1903年に平民社を組織して発行した新聞。社会主義の立場から、日露戦争に対して非戦論(反戦論)を展開した。
U.1873年に森有礼を中心に組織された明六社の機関誌。1874年に刊行されたが、新聞紙条例・讒謗(ざんぼう)律の発布によって1875年に廃刊となる。
V.平民主義を唱えた徳富蘇峰が1887年に刊行した民友社の機関誌・総合雑誌。

答え
(1         )(2         )(3         )(4         )
(5         )(6         )(7         )(8         )
(9         )(10         )(11         )(12         )
(13         )(14         )(15         )(16         )
(17         )(18         )

解答
1日清 2ドイツ 3旅順 4大連(3、4は順不同) 5九龍 6フランス 7ハワイ
8フィリピン 9ジョン=ヘイ 10義和団事件 11北京議定書 12高宗 13大韓帝国 14日露協商
15日英同盟 16内村鑑三(かんぞう) 17幸徳秋水(こうとくしゅうすい) 18イギリス



(この問題は『日本史標準問題』に収録されています。また、問題で使われている地図・図版は『日本史地図・図解集』に収録されています。)