有史以来、5000年の人類の歩みを説明し、また理解することは大変なことだとおもいます。
それをわかりやすく歴史の流れにそって、説明しているのが、歴史の教科書です。
しかし、教科書だけだと、読者が読みまちがって理解したり、平板な理解にとどまったりすることがあります。
教科書を読んでいると、この行間でこんな事実を知っていればもっと豊かな歴史理解になるのにとおもうことがあります。
ここでは、それを、おもいつくままに、おりにふれて紹介します。
●江戸の消防に、大名火消制はじまる
1634(寛永11)年1月29日、幕府は、譜代大名の安藤重長ら6名に対して、市中で火災が発生した場合に消防の指揮をとるように指示した。大名による火消し体制の始めである。この措置は、火災のさいの指揮系統を確立させることで類焼を最小限にとどめるとともに、災害時の民心を安定させようとするのがねらいである。
この制度は、こののち大名火消の制度として整備されていく。江戸最初の大火である1641(嘉永18)年の京橋「桶町の大火」の2年後、幕府は6万石以下の大名16名を4組に編成し、1万石につき30名の人足を出して防火にあたらせる制度を整えた。これは、大火のたびに老中奉書によって出動を命じていたそれまでのやり方をより制度化したものである。
これ以降の大名火消は、従来の「奉書火消」に加えて、幕府の重要施設の消防にあたる「所々火消」、市中の各方角に数家ずつを配する「方角火消」、大名屋敷付近の防火を担当する「近所火消」の4種類に整備されていく。
1658(明暦4・万治1)年9月6日、前年の「明暦の大火」における大名火消だけでは十分に機能しないことから、あらたに定火消(じょうびけし)の制度をもうけ、若年寄の支配下で、幕府によって命じられた旗本の火消役が、火消人足を指揮した。
さらに、大名の大名火消、幕府の定火消とならんで、1718(享保3)年10月18日、町奉行大岡忠相により、江戸の町方に設置された消防組織として、町奉行が監督する町火消が制度化された。
●キリシタン摘発のため、絵踏みを考案
幕府はキリスト教信者を摘発する手段の一環として絵踏みを考案し、1629(寛永6)年から長崎で実施にうつした。
絵踏みは、キリスト教の聖画などを人びとに踏ませ、病人には足をつけることにより、その態度や顔色からその者がキリスト教信者であるかどうかを判定するものである。踏む対象となる絵は「踏絵(ふみえ)」と呼ばれ、十字架の印や信者から没収したメダルなどが用いられた。
こののち絵踏みは、数年間のうちに北九州各地で行われ、また長崎奉行所では真鍮(しんちゅう)製の踏絵30枚を作って諸藩に貸し出した。やがて長崎では、絵踏みがしだいに年中行事化し、町民は「身の潔白」を証明するため進んでこれを行うようになった。
翌1630(寛永7)年、幕府は、キリスト教禁制の徹底をはかるため書物改役(あらためやく)を設置し、キリシタン関係書の輸入禁止制度を整えた。これによって、長崎に渡来した書籍は長崎奉行所書物改役よって検閲され、一言半句でも疑わしい文言があるとその書物は禁書とされることになった。
●仙台藩の買米仕法
買米(かいまい)仕法は、仙台藩が1600(慶長5)年より始めた農政の基本的仕法の一つで、藩が貢租以外の余剰米を農民から買い上げ、これを江戸へ回送して売却し利益を得るというものである。具体的には、毎年早春から夏秋にかけて藩が農民に金を前渡しし、秋の出穀のときに米で返納させると同時に余剰米を買い上げるという方法がとられた。この前渡金は無利子で、しかも秋の買い上げ値段は地相場(じそうば)よりも高かったとされ、農民のなかには前渡金を「御恵金(おめぐみきん)」と称して感謝した者もいたといわれる。
買い上げられた米は、いったん買米蔵に貯蔵されたのち、江戸へ送られた。当初は江戸での売値が高く、ばく大な利益を仙台藩にもたらしたといわれる。江戸では仙台米が本穀米(ほんこくまい)と称され、米の取引売買の標準米である建米(たてまい)となって、江戸の米相場を左右した。 1626(寛永3)年、仙台藩主伊達政宗(60歳)の命で、3年前から行われていた北上川の開削工事が完成し、河口の石巻が奥州第一の物資輸送の基地港として本格的に始動した。以後、石巻は藩米の一大集積地に変貌、仙台藩の買米仕法が本格化することになる。さらに、石巻は南部・八戸藩を含む東回り海運最大の基地港として発展していった。
●日本橋に魚会所を開設
1625(寛永2)年頃に日本橋の本小田原町に魚会所が開設された。
この頃まで江戸の魚市場の中心地となっていたのは日本橋で、摂津国佃(つくだ)村(大阪市西淀川区)から幕府へ御用魚を上納するために江戸へ下ってきた漁民が、上納した残りの魚を日本橋の一郭で売買したのが始まりといわれる。その後、江戸の発展を見越して、大和屋助五郎など多くの関西商人が江戸へ渡り、魚売買を始めた。そして、資金面などで周辺の漁村との結びつきを深めながら、漁獲物の集荷・販売のルートを確立して、魚市場としての形がつくりあげられていった。市場の店先にさまざまな魚介類が置かれて、新鮮な魚を求める魚屋や庶民たちでにぎわい、のちにこの一帯は「魚河岸」と呼ばれるようになった。当初、本小田原町組と本船(ほんふな)町組の2つだった日本橋の魚市場は、のちに本船町横店(よこだな)組・安針(あんじん)町組が加わって四組魚問屋となり、本材木町組や金杉・本芝魚市場とともに江戸の魚介類売買に中心的な役割を果たした。
こうした魚市場の盛行にともなって、幕府でも魚会所を設置し、魚問屋によって集められた魚介類のなかから御用魚を買い上げるしくみを整えることになった。
●大久保彦左衛門、『三河物語』を著す
1622(元和8)年、戦国生き残りの旗本として数々の逸話が伝えられる大久保彦左衛門忠教(ただたか)(63歳)は、この年『三河物語』と題する回想録を著した。
同書は3巻からなり、上・中巻は徳川氏代々の仁政と自分の祖先および一族の武功を記した祖父の体験の聞き書きで、下巻は自己の体験を記した覚え書きという構成である。彦左衛門が日ごろ抱いている時勢批判もいたるところにみることができる。
彦左衛門は1560(永禄3)年の生まれで、秀忠の側近として権勢を振るった大久保家嫡流の大久保忠世(ただよ)・忠隣(ただちか)父子は彦左衛門の実兄と甥にあたる。1614(慶長19)年、家康の側近本多正信(まさのぶ)・正純(まさずみ)との抗争に敗れ、大久保忠世・忠隣父子が失脚して以来、大久保一族には不遇の時代が続いていた。彦左衛門の時勢に対する不満もここにあったとおもわれ、また太平安穏の世相と人心の変化は、彦左衛門をして時勢に屈しない譜代の古武士の意地をつらぬく態度をとらせた。なお、この年の10月1日、宇都宮藩主本多正純は突然所領を没収され、出羽由利に配流となった。こののち、本多正純所領没収事件は真相の不確かさから潤色され、「宇都宮釣り天井事件」として広く世に知られるようになった。
●茶人、織田有楽斎
織田信長の弟で、関ヶ原の戦い・大坂の陣などで戦い、茶人としても知られた織田有楽斎長益(うらくさいながます)が、京都の東山で1621(元和7)年12月13日死去した。享年75歳である。
長益は、本能寺の変で兄・信長を失ったのち、秀吉に仕えて従四位下・侍従に列した。1600年の上杉征伐には家康に従って東下、さらに関ヶ原の戦いでは数々の戦功をたてた。長益は豊臣秀頼の生母淀君の叔父にあたるため、その後、大坂城中で秀頼を補佐しつつ、駿府・江戸とのあいだを取りもってきた。大坂冬の陣にさいしては、秀頼母子に家康と戦うことの不可であることを説く一方、家康の意をうけて和議の斡旋にも奔走した。
その後、長益は隠棲して有楽斎と称し、千利休直伝の茶事で有楽流の一派を開き、千利休亡き後の茶の宗匠ともくされた。現在の東京の有楽町はここに有楽斎の屋敷があったことに由来する。
●菱垣廻船の運行はじまる
江戸幕府の成立以来、急速に拡大しつつあった江戸の町は、多くの消費物資を必要としていた。そのため、「天下の台所」とよばれた大坂の商圏からの効率的な輸送が強く求められた。
1619(元和5)年、堺の一商人が紀伊の富田(とんだ)浦(和歌山県白浜町)から250石積みの廻船を借りうけて、木綿・油・酒・酢・醤油など日用品を江戸へ運んだ。最初の菱垣(ひがき)廻船である。廻船利用というアイディアは、海路の危険があるものの、輸送力・時間・費用のすべての面ですぐれており、江戸の問屋・商店にも好評であった。
5年後の1624(元和10・寛永1)年、大坂北浜の泉屋兵右衛門が江戸積みの廻船問屋を開いて定期的な運行を開始した。そのころから、廻船の両舷に竹を交差して菱形に垣を設けたところから「菱垣廻船」とよばれるようになった。
●公家衆は諸芸稽古に励むべし
1619(元和5)年1月28日、諸公家衆が禁裏に召集され、武家伝奏広橋兼勝(かねかつ)、三条西実条(さねえだ)から幕府の申し出として、公家衆の諸芸稽古の式日(儀式の日)と課目が伝達された。
それによれば、2日有職(ゆうそく)、6日和歌、10日儒学、13日雅楽、19日連歌、23日詩文学、25日歌学、27日連句、29日詩を行い、とくに触れがなくても伺候(しこう)することが定められた。1603(慶長8)年の公家衆作法5カ条の制定をうけて、公家を家芸の芸能に専念させることによって、幕府の対朝廷・公家政策のいっそうの強化をねらったものである。一方、公家にとっては家芸の精進が幕府への最大の奉公となり、結果として宮廷文化の盛行となった。のちに後水尾(ごみずのお)天皇を中心とする寛永宮廷文化が花開くことになる。
●幕府が東海道の諸駅の人馬宿賃を定める
1617(元和3)年5月20日、幕府は、東海道の旅人の宿泊料金について、これまで湯を沸かす薪代の木賃(きちん)だけで宿泊できた制度を改め、木賃のほかに宿料を加算することを定めた。
1612(慶長17)年の幕府の規定によれば、木賃は人1人銭3文、馬は人より多く湯を使うとの理由で1頭6文とされていた。1614(慶長19)年の法令で、薪を持参した者には「宿賃をつかはすに及ばず」と加えられた。さらに、1617(元和3)年5月20日の法令で、宿泊料は人1人京銭4文、馬1頭8文とされ、あわせて「その宿の薪柴を用いない者は半分に減額する」と定められた。その半分は宿料を意味し、実質的な値上げとなった。この後、宿泊料金は木賃と宿料の2本立てとなる。
●本阿弥光悦が芸術家村をつくる
1615(慶長20・元和1)年、寛永期の文化をになうことになる、京都町衆を代表する芸術家本阿弥光悦は、家康から二条城に召されて、京都洛北の鷹峰(たかがみね)に土地を下賜された。そこで、光悦は、一族のほかに紙屋宗二ら工芸家を引き連れて集団移住し、法華信仰を背景とした芸術家村をつくった。
本阿弥家は、代々刀剣の研磨や鑑定を業とし、その家名は室町時代以来の同朋衆(どうぼうしゅう)のもので、京都町衆の名門であった。光悦もその業を継いでいたが、12、13年前に家業を離れて、以来、自由奔放な文化活動に専心していた。書・陶芸・蒔絵など美術工芸面に加えて出版活動にもたずさわり、京都町衆のあいだで絶大な指導力をもっていた。
10年ほどのうちに、鷹峰の芸術家村は戸数55軒を数えるほどに発展し、江戸初期の上方の文化センターとなった。なお、本阿弥光悦の代表作品としては、「舟橋蒔絵硯箱」がある。