最終更新日2024年12月21日
日本史の歴史地図へのお誘い
日本史の演習
−初期議会と条約改正−
次の文の( )に適する語句を答えなさい。
欧米を範とする法典の編纂は明治初年に着手され、フランスの法学者(1)をまねいて、フランス法をモデルとする各種法典を起草させ、1880(明治13)年には(2)と治罪(ちざい)法(刑事訴訟法)を憲法に先行して公布した。その後も、条約改正のためもあって、民法と商法の編纂を急ぎ、1890(明治23)年には、民法、商法、民事・刑事訴訟法が公布され、法治国家としての法体系が整えられた。
これらのうち民法は、1890(明治23)年に大部分がいったん公布されたが、制定以前から一部の法学者のあいだで、家族道徳など日本の伝統的な倫理が破壊されるとの批判がおこり、これをめぐって激しい議論が戦わされた(これを(3)という)。1891(明治24)年、帝国大学教授(4)は法律雑誌に「民法出デ丶忠孝亡ブ」という題の論文を書き、(1)の民法を批判した。この結果、第三議会において商法とともに、修正を前提に施行延期となり、1896(明治29)年と1898(明治31)年に、先の民法を大幅に修正して公布された。こうしてできた新民法は、戸主の家族員に対する支配権(戸主権)や家督相続制度など、家父長制的な(5)の制度を存続させるものとなった。
1890(明治23)年におこなわれる日本最初の衆議院議員選挙を前に、旧民権派の再結集が進み、これに対抗する政府側では、すでに憲法発布直後に黒田清隆(きよたか)首相が、政府の政策は政党の意向によって左右されてはならないという(6)の立場を声明していた。しかし旧民権派が総選挙に大勝し、第1回帝国議会(第一議会)では、立憲自由党と立憲改進党などの民党が衆議院の過半数を占めた。なお、憲法と同時に公布された衆議院議員選挙法では、選挙人は満25歳以上の男性で直接国税15円以上の納入者に限られたから、参政権が与えられた有権者は全人口の1%強であった。また、被選挙人は満30歳以上の男性で、納税資格は選挙人と同じである。
第一議会が開かれると、(6)の立場をとる第1次(7)内閣は、予算問題で、政費節減や、行政費を節減して地租軽減・地価修正をおこなえとの(8)を主張する民党に攻撃されたが、自由党の一部を切り崩して予算を成立させた。つづく第二議会では、第1次(9)内閣が民党と衝突して、衆議院を解散した。1892(明治25)年の第2回総選挙に際して、(9)内閣は、内務大臣(10)を中心に激しい選挙干渉をおこなって政府支持者の当選につとめたが、民党の優勢をくつがえすことはできず、第三議会終了後に退陣した。ついで成立し「元勲総出」の第2次伊藤博文内閣は、民党第一党の自由党と接近し、1893(明治26)年には天皇の詔書の力もあって海軍軍備の拡張に成功した。しかし、政府と自由党の接近に反発する改進党などの残存民党は、かつての(11)党である国民協会と連合して、条約改正問題で政府を攻撃したので、政府と衆議院は日清戦争直前の第六議会まで対立を繰り返した。なお、日清戦争後の1896(明治29)年に残存民党を中心に進歩党が結成された。
旧幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約の改正、とくに(12)(治外法権)の撤廃と(13)の回復は、政府にとって大きな課題であった。岩倉具視・(14)の交渉失敗のあとを受け継いだ(15)外務卿(のち外務大臣)は、1882(明治15)年、東京に列国の代表を集めて予備会議を開き、ついで1886(明治19)年から正式会議に移った。その結果、1887(明治20)年には、日本国内を外国人に開放する(これを(16)という)かわり、(12)を原則として撤廃する改正案が、欧米諸国によって一応了承された。
しかし、(12)の撤廃に関しては、欧米同様の法典を編纂し、外国人を被告とする裁判には半数以上の(17)判事を採用するという条件がついていた。政府部内にもこれらの条件は国家主権の侵害であるという批判がおこり、井上が交渉促進のためにとった(18)外交と称せられる極端な欧化主義に対する反感とあいまって、1886(明治19)年にはノルマントン号事件もおこり改正交渉に反対する政府内外の声が強くなり、(15)は交渉を中止して外相を辞任した。
そのあとを受けた(19)外相は、条約改正に好意的な国から個別に交渉を始め、アメリカ・ドイツ・ロシアとのあいだに改正条約を調印した。しかし、条約正文以外の約束として(20)への(17)判事の任用を認めていたことがわかると、政府内外に強い反対論がおこった。(19)外相が対外硬派の団体(21)の一青年により負傷させられた事件(1889年)を機に、改正交渉はふたたび中断した。
条約改正の最大の障害であったイギリスは、シベリア鉄道を計画して東アジア進出をはかるロシアを警戒して日本に対して好意的になり、相互対等を原則とする条約改正に応じる態度を示した。そこで(22)外相が改正交渉を開始したが、1891(明治24)年の(23)事件で辞任した。その後、第2次伊藤内閣の外相(24)は、自由党の支持によって国内の改正反対の声をおさえ、日清戦争直前の1894(明治27)年、(12)の撤廃と関税率の引き上げ、および相互対等の最恵国待遇を内容とする(25)条約の調印に成功した。ついで他の欧米諸国とも改正条約が調印され、1899(明治32)年から同時に施行された。残された(13)の回復も、1911(明治44)年に(26)外相のもとで達成された。こうして開国以来半世紀を経て、日本は条約上列国と対等の地位を得ることができた。
答え
(1 )(2 )(3 )(4 )
(5 )(6 )(7 )(8 )
(9 )(10 )(11 )(12 )
(13 )(14 )(15 )(16 )
(17 )(18 )(19 )(20 )
(21 )(22 )(23 )(24 )
(25 )(26 )(27 )
解答
1ボアソナード 2刑法 3民法典論争 4穂積八束(ほづみやつか) 5家 6超然主義 7山県有朋
8民力休養 9松方正義 10品川弥次郎 11吏(り) 12領事裁判権 13関税自主権 14寺島宗則 15井上馨
16内地雑居 17外国人 18鹿鳴館(ろくめいかん) 19大隈重信 20大審院 21玄洋社 22青木周蔵 23大津
24陸奥宗光(むつむねみつ) 25日英通商航海 26小村寿太郎 27自由