有史以来、5000年の人類の歩みを説明し、また理解することは大変なことだとおもいます。
それをわかりやすく歴史の流れにそって、説明しているのが、歴史の教科書です。
しかし、教科書だけだと、読者が読みまちがって理解したり、平板な理解にとどまったりすることがあります。
教科書を読んでいると、この行間でこんな事実を知っていればもっと豊かな歴史理解になるのにとおもうことがあります。
ここでは、それを、おもいつくままに、おりにふれて紹介します。
●薩長に討幕の密勅が出される
1867(慶応3)年10月13日、長州藩に討幕の密勅が出された。翌14日には薩摩藩にも同様の密勅が出される。
土佐藩を中心とする大政奉還の動きが表面化した9月、薩摩藩・長州藩・広島藩は出兵盟約を秘密裏に締結した。とくに薩長両藩と陸援隊の中岡慎太郎らは、岩倉具視と密接な連絡をとり武力討幕の密謀を進めた。
江戸幕府が大政奉還を行い、新しい朝廷政府のなかで主導権を確保すれば、武力討幕の機会が遠のくとみた薩長両藩は、討幕を命じる天皇の勅書を要請していた。これに応えて、岩倉具視が密勅を作成した。薩摩藩に出された討幕の密勅では、将軍慶喜を賊臣とよんでいるが、密勅そのものは勅書としての形式を欠き、正規の手続きもへずに作成された。
翌14日に、慶喜は大政奉還を行うが、密勅により武力討幕の大義名分を得た薩長両藩は、ただちに軍上洛の準備を進めた。
●薩摩藩が土佐藩と、挙兵の盟約および公議政体樹立の盟約と、硬軟両様の密約を結ぶ
1867(慶応3)年5月21日、土佐藩士乾(いぬい)退助(板垣退助、当時31歳)は、中岡慎太郎(当時30歳)、毛利恭助(当時34歳)とともに薩摩藩の西郷隆盛(当時41歳)、小松帯刀(たてわき、当時33歳)と京都で会見し、薩摩・土佐両藩士の間で討幕のための挙兵盟約が結ばれた。
土佐藩は前藩主山内豊信(容堂)の主導のもとに公武合体路線を推し進め、長州藩と秘密同盟を結んだ薩摩藩とは一線を画していた。しかし、海援隊の坂本竜馬や陸援隊の中岡慎太郎は別の路線を歩んでいた。豊信の公武合体路線にあきたらない乾退助らは中岡を介して薩摩藩に接近し、両者のあいだにこの盟約が成立した。
これとは別に土佐藩参政後島象二郎は同年6月13日、大坂へ向かう船上で坂本竜馬から「船中八策」を授けられ、薩摩藩と交渉して6月22日、公議政体樹立を骨子とした薩土盟約を結んだ。これにより薩摩藩は、土佐藩と硬軟両様の盟約を結んだことになる。
●明治天皇が即位、公武合体から王政復古へ
1867(慶応3)年1月9日、祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王(当時16歳)が践祚(せんそ)し、明治天皇となった。前年12月25日に父孝明(こうめい)天皇が急死したための即位であった。
公武合体論者の孝明天皇が死去し、明治天皇が即位するや、朝廷の雰囲気は一変した。まず、1月15日、1863(文久3)年の8月18日の政変で謹慎処分となった公卿の一部が赦免された。同月25日、3月29日にも孝明天皇によって処罰された公卿の大量赦免が行われ、岩倉具視も入京を許された。こうして、朝廷は公武合体の路線から、討幕・王政復古へと急激に路線を変更させた。孝明天皇の急死と明治天皇の登場は、政治的な局面転換のきっかけとなった。ただ、明治天皇は若年で即位したため、成人するまでの政治的発言の記録は残されておらず、明治維新は側近の岩倉具視らの主導によったと考えられる。なお、明治天皇の即位の礼は翌1868(慶応4・明治1)年8月27日に行われ、9月8日明治と改元され、一世一元の制が定められた。
●渡米や渡欧の経験を生かし、福沢諭吉が『西洋事情』を出版する
1866(慶応2)年12月、福沢諭吉(当時33歳)の『西洋事情』初編3冊が刊行された。内容は欧米の政治や税法からガス灯・電信機などの制度・文物を解説、ほかにアメリカ・イギリス・オランダの歴史や政治・軍隊などを説明している。
福沢は1860(安政7・万延1)年咸臨丸で渡米、62(文久2)年幕府使節とともに渡欧して見聞を広めた。『西洋事情』はこのときの見聞と洋書の知識にもとづいて書かれたものである。この書によって、鎖国と攘夷しか知らない日本人は欧米文明の全体像を知ることができた。同書初編は海賊版を含めて25万部以上発行されたとわれ、幕末最大のベストセラーとなった。
●一揆や打ちこわし、全国で民衆が蜂起
1866(慶応2)年は、全国で世直し一揆や打ちこわしが頻発し、空前の広まりをみせた。
その要因としては数年にわたる不作が続き、加えて開国による経済変動により、諸物価が騰貴したことがあげられる。さらに第2次長州征伐により東海道や山陽道各地で物資の徴発と助郷の大量動員が行われ、民衆の不満は頂点に達しつつあった。
5月13日には大坂市内で不満が大爆発し、打ちこわしにあった市中の米屋は855戸に達した。このとき将軍家茂(いえもち)は大坂城に在城しており、捕らえられた町人たちは「発頭人(ほっとうにん)は御城内にあり」と叫んだという。同月28日には打ちこわしが江戸市中に波及した。江戸の打ちこわしは6月に入ってから猛威を極めた。6月13日武蔵の秩父地方で貧農の一揆がおこり、武蔵西北部から上野(こうずけ)に広がる10万人以上の大一揆に発展した。同月15日には陸奥の信夫・伊達2郡で17万人が参加した大一揆が勃発した。東海道の三河地方では第2次長州征伐のさい徴発された助郷の未払い金の支払いの要求などや、秋以降は天候不順による凶作も加わって三河全宿に騒動が広がった。
こうして1866(慶応2)年には全国で農民一揆106件、都市騒擾35件、村方騒動44件の計185件を数え、江戸時代を通じて最高に達した。