最終更新日2025年6月23日
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日本史の話題



有史以来、5000年の人類の歩みを説明し、また理解することは大変なことだとおもいます。
それをわかりやすく歴史の流れにそって、説明しているのが、歴史の教科書です。
しかし、教科書だけだと、読者が読みまちがって理解したり、平板な理解にとどまったりすることがあります。
教科書を読んでいると、この行間でこんな事実を知っていればもっと豊かな歴史理解になるのにとおもうことがあります。
ここでは、それを、おもいつくままに、おりにふれて紹介します。


志賀島で金印を発見
 1784(天明4)年3月16日、筑前国那珂(なか)郡志賀島(しかのしま)(現在の福岡市)の農民甚兵衛(じんべえ)が、福岡藩の郡役所に田から掘り出したという金印を持参し、口上書とともに提出した。
 志賀島は、博多湾の入口に浮かぶ周囲8kmばかりの陸つづきの小島である。甚兵衛の申し出によれば、島の南西の叶(かな)ヶ崎で田の境の溝を修理していた前月23日、大石にぶつかったので金テコを利用して2人がかりで石を掘りのけた。すると数個の石に囲まれて光るものがあり、水で洗ってみると金でできた印鑑だったという。
 金印は印面が約2.3cm四方、重さ109g、少量の銅を含む21金で、「漢委奴国王」(委=倭)の5文字が刻まれていた。これは、西暦57年に「倭奴国(わのなのこく)」が後漢に朝貢し、皇帝の光武帝から「印綬(いんじゅ)」を賜ったという『後漢書』東夷伝の記事と照応している。
 なお、甚兵衛は白銀5枚を与えられ、金印は藩主の黒田家に召し上げられた。

大槻玄沢、オランダ語の入門書『蘭学階梯』を完成
 1783(天明3)年9月、仙台藩医で蘭学者として知られる大槻玄沢(当時27歳)が、初のオランダ語の入門書『蘭学階梯』を完成させ、5年後に刊行された。
 『蘭学階梯』は、上巻でオランダ通商と蘭学の伝来・興隆の歴史をのべて、蘭学研究の意義を説いた。下巻では文字・数字・発音・文法・訳法を解説し、単語・訳例をあげ、助語・記号の説明にもおよんでいた。
 玄沢は、蘭学の名門で代々仙台藩の藩校明倫館養賢堂の学頭を務める大槻家の出で、本名を茂質(しげかた)という。22歳のとき江戸に出て、オランダ医学を杉田玄白に、オランダ語を玄白の紹介で前野良沢に直接学んだ。そして、2人の師の名から1字ずつもらって玄沢と称した。『蘭学階梯』を完成した後、玄沢は長崎に遊学し、3年後の1786(天明6)年には、江戸京橋の自宅に初の蘭学塾である芝蘭(しらん)堂を開設した。そこから、橋本宗吉や稲村三伯(さんぱく)ら多くの蘭学者を輩出した。

天明の飢饉が始まる
 江戸時代の享保・天保の飢饉とならぶ三大飢饉の一つ「天明の飢饉」が始まった。1782(天明2)年、西日本では、春から夏にかけて大風雨に襲われ、また長雨つづきで農作物の作柄も悪く、瀬戸内・九州のほか、近畿地方の綿作地帯が凶作となった。年があけて、1783(天明3)年になると、東日本に凶作がおよび、天明の飢饉は大飢饉となった。
 東日本では、1783(天明3)年の正月から南風が吹き、豪雪地帯にも一片の雪もない暖冬だった。春になると冷たい北東風(やませ)が吹き、5月になっても霜が降り、秋にかけて長雨がつづき、夏も綿入れを着る状態であった。こうした異常気象に加えて、この年7月の浅間山の大噴火は諸国に降灰の被害をおよぼし、空をおおった火山灰は冷夏に拍車をかけた。当然、米の収穫は皆無に等しかった。さらに、西日本で前年からの凶作で米が高値のため、東北諸藩は米を大坂・江戸へ回送していた。
 冬の到来とともに東日本各地の飢饉は最悪の事態となった。その冬、もっとも被害の大きかった津軽藩では餓死者8万人余、領内の田畑の3分の2が荒廃した。南部藩でも死者4万人余、他領への流亡者を加えると、人口の2割近くを失った。また、この大飢饉は米価の急騰を招き、一揆や打ちこわしが各地で相ついだ。幕府は11月9日には全国に一揆の取り締まりを命じたが、効果はあがらず、その後も年貢の軽減や免除を求める強訴がつづいた。

浅間山、大噴火
 1783(天明3)年7月8日、2日前から激しい噴火の様相をみせていた浅間(あさま)山が、午前10時、大音響とともに爆発、幅50m、高さ1,000mにもおよぶ火煙を噴き上げた。大爆発とともに火口からあふれ出た溶岩は、北側斜面の土砂を巻き込んで秒速100mにおよぶ巨大な火砕流となって、5分後には15km離れた標高900mの上野国吾妻(あがつま)郡の鎌原(かんばら)村(現在の群馬県嬬恋(つまごい)村)を埋めつくし、さらに下って吾妻川になだれ落ちた。
 噴火は7月8日に先立つ4月8日以降断続的につづいていた。7月3〜4日にはすでに、碓氷(うすい)峠が2mの降灰のため通行不能となっていた。大噴火の前兆は7月6日早朝、大地震を思わせる鳴動と噴煙で始まった。おりから降り出した雨は灰を含んで泥の雨と化し、翌7日は終日暗夜のようで外出にも提灯をともさなければならなかった。
 幕府の正史『徳川実紀』では、このときの死者を2万人と推定している。さらに、降灰の被害は関東平野を中心に10余国に及び、江戸の町もおよそ3cmの灰で覆われた。また、この噴火は北半球に異常気象をもたらし、ロンドンではきれいな朝焼け・夕焼けが観測されたという。

杉田玄白ら、和訳書『解体新書』に着手
 日本の医学は、室町時代には眼科・小児科・産婦人科、また金創(きんそう)医とよばれた外科など、中国の模倣から抜け出て専門化しつつあった。しかし江戸時代になると、中国宋代の影響を受けてふたたび陰陽説などにもとづく観念的傾向を帯びるようになった。この傾向を実用に役にたたないと否定し、中国漢代の実証的立場への復古を主張して生まれたのが古医方である。
 この古医方の大家が山脇東洋である。東洋らは従来の人体の五臓六腑説に疑問をもち、1754(宝暦4)年、京都六角の牢獄で、死刑囚の解剖を指導して、詳細な観察を行った。この観察からえられた東洋らの知識は解剖所見記にまとめられ、5年後に『蔵志』として刊行された。
 それから17年後の1771(明和8)年3月4日、杉田玄白らは死刑囚の腑分け(解剖)に立ち会い、西洋医学の和訳書『解体新書』に着手した。小浜(おばま)藩医の杉田玄白・中川淳庵(じゅんあん)、豊前中津藩医の前野良沢(りょうたく)ら3人の蘭方医が腑分けに立ち会った動機は、彼らが手に入れたオランダ語訳の『ターヘル・アナトミア』による。玄白と良沢は『ターヘル・アナトミア』を小塚原の刑場に持参し、人体と本の図を見比べた結果、この本の正確さと、今までの自分たちの知識や日本の医学や漢方の誤りに気づいた。これを機に、翌日から本の翻訳に着手した。良沢を中心とした翻訳には石川玄常(げんじょう)・桂川甫周(かつらがわほしゅう)らも加わり、3年後の1774(安永3)年、日本初の西洋医学の和訳書『解体新書』が完成した。

安藤昌益、『自然真営道』で独自の平等論を展開
 1755(宝暦5)年2月、在野の思想家安藤昌益(しょうえき)が、稿本『自然真営道』の総論にあたる大序1巻を秋田で完成させた。
 医学や本草学を学び、八戸(はちのへ)で町医者を開業していた昌益は、2年前、京都の本屋から『自然真営道』3巻3冊を刊行した。これは当時の彼の思想の一部分を要約したものであった。その後も思索はつづけられ、膨大な著作が書きつづられた。こちらは刊行されなかったため、稿本『自然真営道』と呼ばれる。
 稿本のなかで省益は、人が作った法や制度によって、人が人を差別している現実の世を否定し、その秩序を支える学問や宗教を攻撃した。彼が求めた差別のない徹底した平等主義の社会では、すべての人が生産労働に従事して自給自足し、人為によらず自然のままに生きるとした。彼はそれを「自然世」とよんだ。彼の思想は現実の封建制への鋭い批判となっていた。
 しかし、安藤昌益は長く世に知られることがなかった。稿本『自然真営道』が知られたのは、1899(明治32)年頃、哲学者狩野亨吉(かのうこうきち)が古書店で発見してからである。大序1巻と本論100巻の93冊からなる稿本も、1923(大正12)年の関東大震災で大部分が焼失した。

松前藩、国後島に「場所」を開設
 1754(宝暦4)年、松前藩が国後島に「場所」を開いた。場所請負は、18世紀初頭に松前藩が始めた制度で、運上金の上納と引き換えに、商人に知行地の経営権を与えるものである。経営権とは具体的にはその地に住むアイヌと交易する権利のことで、3年契約で運上額は1場所50〜100両、松前藩が藩財政の危機を乗り越えようとして採用した政策だった。
 「場所」を請け負ったのはおもに近江商人たちであった。江戸時代初頭から、蝦夷の産物は日本海を北前船によって大坂に運ばれていたが、大坂市場が求める商品が肥料だった。近畿地方では、17世紀後半から綿花など商品作物の栽培が盛んになり、干鰯(ほしか)を代表とする肥料の需要が増大したためである。この干鰯に対抗する商品が、鰊(にしん)などを使った蝦夷の魚肥で、「場所」を請け負った商人たちは、アイヌを安い労賃で酷使して、鰊魚肥などを安価で大量に供給した。

有毛検見法などにより、享保の改革始まって以来の年貢増徴
 1732(享保17)年の享保の飢饉以降、幕府財政はふたたび悪化した。1737(元文2)年に松平乗邑(のりさと)が農財政担当の勝手掛老中にすると、勘定奉行神尾春央(かんおはるひで)に命じて、財政再建の名のもとに年貢増収政策をつぎつぎと打ち出した。
 神尾らは、その一環として、新たな徴税法である「有毛(ありげ)検見法」を実施した。これは、上田・中田・下田の区別を無視して、一筆ごとに坪刈りをして全余剰生産物を収奪するもので、享保の改革での定免法よりさらに苛酷な税法だった。例をあげれば、武蔵国西方村(現在の埼玉県越谷市)の年貢率は畝引(せびき)検見時代が26%、定免法時代でも34%だったのに対し、有毛検見法では40%台までに増加した。
 神尾はさらに関東地方を中心に、河川敷などの入会地や山林原野の新田検地を実施し、これらにも年貢を課そうとした。松平乗邑・神尾春央による財政再建政策によって、1744(寛保4・延享1)年には、幕府領463万石に対して年貢180万石という享保の改革が始まって以来の徴収記録を達成した。
 しかし「胡麻(ごま)の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と放言した神尾らへの反発は強く、畿内の農民は朝廷・公卿に訴え、関東でも年貢減免運動が幕府を直接突き上げた。

検見法と定免法
 検見法と定免法は年貢の徴収方法である。
 検見法は米の収穫前に、幕府あるいは藩の役人がその年の作柄を実地検分してその年の年貢高を決めるもので、江戸時代初期に制度化されていた。しかし、この方法では、村役人と農民による内見(ないみ)、サンプルの田を刈り取ってみる小検見、代官立ち会いの大検見の3行程を毎年行わねばならず、労力や時間がかかるばかりでなく、贈収賄の弊害も多かった。そのうえ、幕府や藩にとっては毎年の収納額が一定しない欠点もあった。
 これに対して、定免法は過去数年間の収穫量の平均に基づいて年貢高を定め、豊作や凶作にかかわりなくその年貢額を納めさせるものである。ただし、一定割合の収量減があったときは減免措置が講じられた。定免法は享保の改革の基本政策の一つとして1720年代の初めに採用された。定免法は村単位で課せられたので、富農に有利で貧農に不利だったが、生産力の増強とともに村内に余剰を生み出していった。

江戸四宿の一つ、千住宿
 五街道の初宿である東海道の品川、中山道の板橋、甲州道中の内藤新宿、奥州・日光道中の千住は、「江戸四宿」と呼ばれた。
 とくに千住宿は江戸と奥州を結ぶ行政上の境界として重視された。その規模は、家数・人口で品川宿と一、二を争い、宿内の町並は約2.5kmも続いた。また商品流通のうえでも、千住宿に入る江戸への荷物はここから直接宛先に、他の街道へ送る荷物はここから他の3宿に送られる中継基地だった。
 なお、1716(正徳6・享保1)年4月15日、幕府は五街道の呼称を統一する法令を出した。中仙道は中山道とすること、日光海道・甲州海道は下野国や甲斐国に海はないから、今後は日光道中・甲州道中とすることなどが示された。なお、この法令には但書がついており、この法令は諸役人の心得として出されたものであり、かならず守らなければならないという性質のものではないと、補足している。