(この画像と説明文は『日本史地図・図解集』に収録されています)
藤原清衡 は後三年合戦(1083〜87)で陸奥守であった源義家と協力して、一族の内紛を平定、安倍・清原両氏の支配地を継承し、平泉を根拠地に奥州藤原氏3代100年の栄華を開きます。藤原氏は金や馬などの産物の富で京都文化を移入し、北方の地との交易によって独自の文化を育て、繁栄を誇りました。藤原秀衡は奥州藤原氏の最盛期をつくり、源頼朝に対抗し、源義経を保護しました。秀衡の死後、1189年泰衡は頼朝の要求に屈して衣川の館に義経を攻めて自殺させました。そのうえで頼朝は義経をかくまったことを理由に奥州征討を決行し、奥州藤原氏を滅ぼして陸奥・出羽2国を掌握しました。なお、藤原姓は、後三年合戦の後、清衡が奥羽押領使となり、摂関家と保護関係を結び藤原姓を名乗ったことにはじまります。