最終更新日2025年5月8日
日本史の歴史地図へのお誘い
大学入試日本史地図図解問題
−奈良時代までの東北・九州−
次の文の( )に適語を入れ、問に答えよ(学習院大 改)。
7世紀半ばの658年、(1)が水軍を率いて日本海沿岸を北に向かって遠征し、秋田や津軽の(2)と交流を持った。当時、東北地方において国家の支配下に属していなかった人びとは広く(2)と呼ばれ、ヤマト政権の配下で暮らす人びととの異質性が強調された。しかし、彼らの社会では、ヤマト政権配下の人びととの(a交流や交易によって手に入れたとみられる品物)が流通しており、ヤマト政権の版図の外側に位置づけられていても、交流や交易の機会はあったようである。
7世紀後半から8世紀初頭にかけて、律令制が整備されていくとともに、律令政府は東北地方の新たな経営に乗り出した。8世紀に入って724年頃には、陸奥国に(3)城が造営されて、陸奥・出羽両国を支配するうえでの拠点となり、その北方に(b「城」や「柵」)と呼ばれる施設がいくつも造営されて、(2)支配の拡大が目指された。
8世紀初頭の九州南部では、(4)と呼ばれた人びとが、政府の支配拡大に対して衝突し、何度かの兵乱が起きた。720年に起きた反乱では、その鎮圧のために(c大伴旅人)が征(4)持節大将軍として派遣されている。この反乱が鎮圧されて後、(4)の大規模な反乱が起きることはなくなった。しかし、(4)の居住していた薩摩国や713年に成立した(5)国では、この後もまだ戸籍への登録はあまり進まず、口分田の班給が順調に行われる状況ではなかったようである。
都から遠く離れた九州全体を統括する拠点となったのが(d大宰府)である。九州諸国で集められた成人男性が各地方の産物を貢納する(6)の物品は、いったん大宰府に集められてから都に送られた。大宰府の管轄下では、独自の政策がとられることもあり、823年に建議された国家による田地経営である公営田の制は、大宰府管内のみで行われている。
問1.(a)にあてはまるもののうち、灰色で硬質な土器を答えよ。
問2.(b)に関して、ア.(3)城と イ.磐舟柵の位置を下図のA〜Dより選べ。
問3.(c)の子が編纂したと考えられている、歌集を答えよ。
問4.(d)は、現在のどの県に所在するか、県名を答えよ。
答え
1( )2( )3( )4( )5( )
6( )問1( )問2ア( )イ( )問3( )問4( )
解答
1(阿倍比羅夫)2(蝦夷)3(多賀)4(隼人)5(大隅)6(調(庸))
問1(須恵器)問2ア(B)イ(C)問3(万葉集)問4(福岡県)
