最終更新日2025年6月22日
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−源平の争乱−
次の文の( )に適する語句を入れ、図版の空欄に適語を答えよ。
(1)が後白河法皇を幽閉し、1180(治承4)年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団や中央の貴族・大寺院の中には、平氏の専制政治に対する不満が大きくなった。
この情勢をみた後白河法皇の皇子(2)と、畿内に基盤をもつ源氏の(3)は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける(2)の命令(令旨(りょうじ))が諸国の武士に伝えられた。
これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ちあがり、つづいて伊豆に流されていた(4)や信濃(しなの)の木曽谷にいた(5)をはじめ、各地の武士団が挙兵して、ついに内乱は全国的に広がり、5年にわたって争乱が続いた。これを(6)の乱という。
平氏は当初、都を(7)京(現、神戸市)に移した。(7)は近くに良港大輪田泊があり、瀬戸内海支配のための平氏の拠点であったが、この遷都には大寺院や貴族たちが反対したため、約半年間でまた京都に戻し、平氏は畿内を中心とする支配を固めてこれらの動きに対応した。しかし、(1)の突然の死や、畿内・西国を中心とする飢饉などで平氏の基盤は弱体化し、1183(寿永2)年、北陸で(5)に敗北すると、平氏は安徳天皇を奉じて西国に都落ちした。その(5)を、院と結んだ(4)は弟の源範頼(のりより)・(8)らの軍を派遣して滅ぼすと、さらに平氏と戦い、摂津の一の谷、讃岐の屋島(やしま)の合戦を経て、ついに1185(文治(ぶんじ)元)年に長門(ながと)の(9)で平氏を滅亡させた。
この一連の内乱で活躍をしたのは地方の武士団であり、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていった。
答え
(1 )(2 )(3 )(4 )
(5 )(6 )(7 )(8 )
(9 )(10 )(11 )(12 )
(13 )
解答
1平清盛 2以仁王(もちひとおう) 3源頼政(よりまさ) 4源頼朝 5源義仲(よしなか)
6治承・寿永(じゅえい) 7福原 8義経(よしつね) 9壇の浦 10以仁王・源頼政
11一の谷 12屋島 13壇の浦
(ワンポイント知識)
岡山県の旧国名は美作、備前。旭川の運ぶ土砂が海をうめ、かつての島も平野に点在する岡となった地形の特徴から命名された。
(センター試験 改)
源平の争乱について述べた文として正しいものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@ 崇徳上皇と白河上皇の政権をめぐる抗争は、武士の政界進出の契機となった。
A 源平の争乱が終結したのち、院政を再開した後鳥羽上皇は鎌倉幕府との協力関係を重視した。
B 源平の争乱を描いた『太平記』は琵琶法師によって語られ、人々に親しまれた。
C 源頼朝は、平氏が西国に敗走したのち、後白河法皇と交渉し、東国支配の権限を認められた。
解答 C
解説
@は誤。「武士の政界進出の契機となった」のは、1156年の保元の乱。保元の乱は崇徳上皇と後白河上皇の政権をめぐる抗争。
Aは誤。「源平の争乱が終結したのち、院政を再開した」のは後白河上皇。
Bは誤。『太平記』ではなく『平家物語』。『太平記』は南北朝の動乱を主題としている。
