最終更新日2026年6月15日
戻る  メニューに戻る

日本史の歴史地図へのお誘い
戻る  メニューに戻る
日本史の学習室


保元・平治の乱

次の文の( )に適する語句を入れ、図版の空欄に適語を答えよ。

 武家の棟梁としての源氏が、東国に勢力を広げると、東国武士団の中には源義家に土地を寄進して保護を求めるものが増えたため、朝廷が寄進を禁止したほどである。義家のあと、源氏が一族の内紛により勢力がやや衰える中、院と結んで発展したのが、桓武平氏のうちで伊勢・伊賀を地盤とする(1)平氏である。
 なかでも平(2)は、出雲で反乱をおこした源義家の子義親(よしちか)を討ち、(2)の子の(3)は、瀬戸内海の海賊平定などで鳥羽上皇の信任を得て、殿上人(でんじょうびと)となって貴族の仲間入りをし、武士としても院近臣としても重く用いられるようになった。その平氏の勢力をさらに飛躍的にのばしたのが、(3)の子の平(4)である。
 1156(保元(ほうげん)元)年、鳥羽上皇が死去するとまもなく、かねて皇位継承をめぐり鳥羽上皇と対立していた(5)上皇は、摂関家の継承をめざして兄の関白藤原忠通(ただみち)と争っていた左大臣藤原(6)と結んで、源為義(ためよし)・平忠正(ただまさ)らの武士を集めた。これに対して、鳥羽上皇の立場を引き継いでいた(7)天皇は、忠通や近臣の藤原(8)(信西(しんぜい))の進言により、平(4)や為義の子源義朝(よしとも)らの武士を動員し、上皇方を攻撃して破った。その結果、(5)上皇は讃岐(さぬき)に流され、為義らは処刑された。これを(9)の乱という。
 つづいて、院政を始めた(7)上皇の近臣間の対立から、1159(平治(へいじ)元)年には、(4)と結ぶ(8)に反感をいだいた近臣の一人藤原(10)が、源義朝と結んで兵をあげ、(8)を自殺に追い込んだ。だが、武力にまさる(4)によって(10)や義朝は滅ぼされ、義朝の子の(11)は伊豆に流された。これを(12)の乱という。
 この二つの乱に動員された兵士の数はわずかであったが、貴族社会内部の争いも武士の実力で解決されることが明らかとなり、武家の棟梁としての(4)の地位と権力は急速に高まった。

保元・平治の乱


保元・平治の乱2


答え
(1         )(2         )(3         )(4         )
(5         )(6         )(7         )(8         )
(9         )(10         )(11         )(12         )
(13         )(14         )(15         )(16         )


解答
1伊勢 2正盛(まさもり) 3忠盛(ただもり) 4清盛(きよもり) 5崇徳(すとく)
6頼長(よりなが) 7後白河 8通憲(みちのり) 9保元 10信頼(のぶより)
11頼朝(よりとも) 12平治 13清盛 14鳥羽 15後白河 16崇徳


(ワンポイント知識)

・平忠盛は、瀬戸内海の海賊平定などで鳥羽上皇の信任を得て、殿上人(でんじょうびと)となって貴族の仲間入りをはたしたのに対し、源為義は弓の名手として知られていたものの、その粗暴さも手伝って、昇殿を許されない検非違使にとどまった。


(センター試験 改)

 ア〜エの写真または絵について述べた文として誤っているものを、次の@〜Cのうちから一つ選べ。

保元・平治の乱3


@ アの写真は、古墳時代の甲冑をつけた武人の埴輪であるが、5世紀には、倭王みずから武装して東西に遠征し、領土を拡大したと伝えられる。
A イの絵は、平治の乱における戦闘の場面を描いたものであるが、この乱で勝利を収めた平清盛は乱後、後白河院政のもとで中央政界での地位を高めた。
B ウの絵は、長篠の戦いを描いたものであるが、長篠の戦いは、鉄砲が初めて使用されたことで画期的な戦いである。
C エの写真は、原爆投下後の広島の惨状であるが、原爆は広島に次いで長崎にも投下され、無差別で大量の殺戮をもたらした。


解答 B
解説
Bは誤。鉄砲は1543年に伝来、8年後には畿内で鉄砲を使用した戦いが行われた。
@・A・Cは正。



(この問題は『日本史標準問題』に収録されています。また、問題で使われている地図・図版は『日本史地図・図解集』に収録されています。)